論文:  カント『判断力批判』の純粋性概念  ー純粋にして非純粋ー (2)

 

 総括してみよう。「直感的判断力批判」の真の主題は純粋aで非純粋bな趣味判断である。具体的には「美のイデアール(理想)」の制約のもとに立つ純粋ならざるb判断がその真の主題である。そもそも「直感的判断力批判」は崇高論を別とすれば、その全体が一貫して趣味判断の理説である。ただしその分析論の叙述は二段階の構造を持つのであって、前半(40 節まで)は純粋 aな趣味判断論を、また後半は非純粋 bな趣味判断論を展開する(16.17節は後半への予告に相当する)。関心に依存しない純粋な趣味判断の問題意識が40節までを統制し、関心を混じえそれによって制約を受ける非純粋な趣味判断の問題意識が41節から54節の叙述を統制している。そして趣味判断論のハイライトをその適用に見る限り、純粋趣味判断にこそ『判断力批判』の本来的主題を見ることが正しい。だが私が強調したいのはむしろ次の事柄である。

過去の論文の中で(『判定構造論の構造』、美学、1988)、私は『判断力批判』でのカントの趣味判断論を飽くまでも一個の「判定構造論」として解読することを提案した。そのとき趣味判断のエレメントとして普遍・特殊・比較・判定(包摂)の四つを見出すとともに、趣味判断の解明(Exposition)と演繹(Deduktion)がこれら四契機をめぐる解明と演繹に他ならないことも示した。だがこの成果は新しい方法への道を拓くだろう。40節までの純粋 趣味判断論から41節以降の非純粋 趣味判断論への問題意識の変更、この変更の経緯の分析にもこれと同様の方策を取ることができるのではないか。具体的に言うなら、40節以前から41節以後への移行を・・・カント自身が42節の段落7で実行したように、単に関心による限定根拠の非純粋 化として説くのではなく・・・むしろ判断の四つのエレメント(普遍・特殊・比較・判定)それぞれにおける非純粋 化として描きだすことができるのではないか。そのようにしてこそ、カントの趣味判断の構造をいわばスペクトル分解し、これを立体的に視野に収めることが可能になるのではないか。「直感的判断力批判」はそのための十分な材料を与えている、と私は考えるのである。しかしこれも別稿に譲らなければならない。

 いま我々が確認できるのはた次のことである。すでに固定美に関して述べたように、abの二種類の純粋性概念の両立可能性ゆえに、純粋性aと純粋性bの間にあるのは領域的排他性ではなく、互いに独立な問題意識に由来する単なる視点の差異性だけである。その意味で私は始めに掲げた「異説」に対して次のように応酬することができる。カントの「直感的判断力批判」において趣味判断は純粋であり、同時に純粋でない、カントはまさにそのようなものとして趣味判断を定位していると。

  [典拠の吟味]

異説がその典拠としてあげた文章に関して私はこう考える。まず当の文章を掲げておこう。「(感覚の)快適さが美と結合することは趣味判断の純粋性を妨げるが、同様に善(ものそのものにとって、そしてものの目的からみて、ものの含む多がそれのために善しとされるそれ)が美と結合することは、趣味判断の純粋性を毀損する」(16節段落4)。

 カントの文章は危うい。純粋性概念が一義的であると読者に錯覚させかねないことを、カントは『判断力批判』の16節のこの文章でしているからである。快適と善がいずれも趣味判断の純粋性を毀損するという言い回しは、両者がそれを同じ仕方で毀損することと受け取られやすい。そうではない。

 カントのこの書法には微かながら修辞的技巧の影を認めることができる。類(全体)の名が種(部分)の表示に修辞的に転用されているからである。たしかにこれら二つの「純粋性」は、「異質なものの排除」という純粋性概念の一般的意味を共有する。しかし共有されるのはそれだけであって、二つの純粋性(Reinigkeit)は決して同じ内容を表していない。何度も言ったように、文章前半のそれは限定根拠における趣味判断の純粋性aを意味し、後半のそれは適用における趣味判断の純粋性bを意味するのである。それゆえ、この文章の役割はむしろ、41節以後を歴とした趣味判断論(ただし非純粋bな趣味判断論)として解読する可能性を予告することにあると言わねばならない。ただカントは両者が純粋性という同じ類の二つの種であるという理解のもとで、一定の修辞技法に沿いつつ、各々の種を表すのに同じ類の名を使用したのわけである。カントのこの文章を盾に純粋性概念の一義性を持ち出すことはできないし、またこの文章に誘われて、趣味判断があらゆる非純粋性から自由であると夢想してはならない。繰り返して言う、ふたつの純粋性はでなく単になのである。

 

 追記 Ⅰ ) 本論文は、かつて京都大学美学美術史学研究室編、『芸術の理論と歴史』(思文閣出版.1990年)に共同執筆者の一人として提出した論文を、若干の措辞の変更を加えつつ、ほとんどそのまま転載したものである。併せて、当時は制限枚数の縛りがあって付すことができなかったカントの資料を、遅ればせながらここに注として添付しておく。

 注:『哲学における目的論的原理の使用について(Über den Gebrauch teleologischer Prinzipien in der Philosophie)』より、アカデミー版カント全集Ⅷ.S.184.  「この機会に、かなりの人々が私の著作に矛盾(Widersprüche)なるものを発見したと非難している件に一言触れておく。人々はこの著作全体に眼を通さないでこの非難をしているのであり、他の箇所と結びつけて読めば、矛盾はおのずからすべて氷解するのである。「ライプツィヒ学術新聞」(1787.No.94)によれば、1787年版の『(純粋理性)批判』の序論の37行目の内容は、すぐ後の51行目と2行目の内容と真っ向から矛盾しているとされる。なぜかと言えば、前の箇所で私は、アプリオリな認識のうちで経験的なものが一つも混入して(beigemischt)いないアプリオリな認識を純粋(rein)と呼び、そうでない[純粋でない]認識の例として、「すべて可変的なもの(alles Veränderliche)は原因をもつ」という命題を挙げているのに対して、その5頁ではまったく同じ命題をアプリオリな純粋認識の例として、すなわち一切の経験的なものに依存(abhängig)しない認識の例として持ち出しているからだ、と。[だが実際はこうなのである。]「純粋(rein)」という言葉には二つの意味があるということ、そして私は著作[純粋理性批判]ではこの言葉を一貫して後の方の意味で使用したのである。」

この引用箇所は私の所説と完全に一致する。「純粋(rein)」は両義的である。実際、カントは最初の下線部すなわち「アプリオリな認識のうちで、経験的なものが一つも混入して(beigemischt)いないアプリオリな認識」は純粋だと言うが、本論文の私の表記でそれは「純粋b」に相当する。また二つ目の下線部すなわち「一切の経験的なものに依存(abhängig)しない認識」も純粋とされるが、私の表記でそれは「純粋a」に相当する。そしてカントは『純粋理性批判』でreinを・・・序論の37行目を除いて・・・一貫して「後の方の意味で」つまり「純粋a 」の意味で使用したと説明しているのである。このことは『純粋理性批判』と『判断力批判』の差異の一つに数えられて良い。第一批判では 「純粋b」の用例は一回に止まるのに対して、第三批判では「純粋b」の用例は「純粋a」の用例と頻度において拮抗するからである。

 (追記 Ⅱ )上でも述べたように本論文は、私がかつて京都大学美学美術史学研究室編、『芸術の理論と歴史』(思文閣出版.1990年)に共同執筆者の一人として提出した論文を、本ホームページ上に転載したものである。この転載を許諾された思文閣出版株式会社に厚く感謝する。

 

 

 
 
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