「カント『判断力批判』の純粋性概念」      1990年

 

 

 本論文の問題意識はカントが著作『判断力批判』(1790)の第一部「直感的判断力批判」で使用したある概念の挙動に照準されている。その概念とは「純粋(rein)」およびその否定形である「非純粋(nicht rein)」の概念である。独特の紛らわしさを持つカントの純粋性概念について、その基本的制約は果たして周知されているだろうか。本稿は『判断力批判』におけるこの概念の意味について、筆者と見解を異にする立場からの主張(異説と呼ぼう)とその典拠をまず提示し、次に私の側からそれへの反対意見と反対証明を逆提示するという叙述形式をとる。問題提起はすでに冒頭で果たしている。異説と典拠は次に掲げるとおりであり、以下私の側からの反駁が続く。 

 

    [異説とその典拠]

 カントが探求する趣味判断は純粋であり、そして純粋でなければならず、また趣味判断は非純粋でなく、そして非純粋であってはならない。美の判断はいささかも不純性によって犯されてはならないからである。実際『判断力批判』でカントは言う(第16節段落4)。「(感覚の)快適さが美と結合することは趣味判断の純粋性(Reinigkeit)を妨げるが、同様に(中略)善が美と結合することは趣味判断の純粋性を毀損する。

 

 [反対意見] 

これに対して私はこう言う、カントの提示する趣味判断は純粋(rein)であり、そして同時に純粋でなく(nicht rein)、まさにそのようなものとしてカントは趣味判断を講述していると。

 

  [反対証明]

  (1) 純粋は純粋の否定である。しかし純粋(rein)という言葉それ自体がすでにひとつの否定的概念であることに注意されたい。なぜならこの言葉は一般に「異質(fremd)なものを含まない」ことを意味するからである。だがとかく否定的概念の扱いには困難がつきものであって、その困難については後述するだろう。しかしカントの語法はもうひとつ困難の種を含んでおり、それが「直感的判断力批判」の叙述を異常に危ういものにしている。

   カントの純粋・非純粋という概念は両義性を帯びている。それは一方で限定根拠における認識の純粋性・非純粋性を意味し、他方でそれは適用における認識の純粋性・非純粋性を意味する。本稿末尾の「追記 I」に収録した、カントの1788年の論文『哲学における目的論原理の使用』が説くように(アカデミー版カント全集Ⅷ、S.184)、純粋・非純粋は二義牲を帯びた概念であって、まず「アプリオリな認識つまりなんら経験的なものに依存(abhängig)しない認識」をreinと形容する場合があり、他方「アプリオリな認識のうちで、経験的な何ものも混入(beigemischt)されない認識」をreinと形容する場合がある。前者は認識の限定根拠が経験的なものを含まぬこと(つまり認識がアプリオリであること)を意味するが、後者はアプリオリな認識がさらに経験的なものに関係づけられていないことを意味する。だが経験的なものに依存しないことと経験的なものに関係づけられていないことは、認識にとって別のことであるから、純粋性概念をめぐる右の区別は有効なのである。

   ここから直ちに次のことが導ける。純粋性概念が両義性を帯びるのに応じて、非純粋性概念も両義的な概念となる。認識は二通りの仕方で非純粋でありうるのである。すなわち、認識の限定根拠が経験的なものを含むという意味で認識が非純粋である場合と、アプリオリな認識について、その認識が経験的なものに関係づけられていると言う意味で非純粋な場合とである。これら二つの異なる仕方で認識は非純粋(nicht rein)と形容されるのであって、カントの「非純粋」なる術語はいづれの用法に対しても開かれている。

   ここで我々は純粋・非純粋と言う対概念の核心に近づく。カントは二つの純粋性と二つの非純粋性を容認した。だが純粋・非純粋の組み合わせのうち、両立可能な組み合わせが一対あり、また一対しかないことを次に示そう。なお限定根拠における純粋・非純粋はaで、また経験的なものへの適用におけるそれはbで表示する。

   まず認識あるいは判断がaの意味で純粋なら、当然、それは同じaの意味で非純粋ではありえない。同様に判断がbの意味で純粋なら、当然、それは同じbの意味で非純粋であり得ない。これらふたつの「両立不可能生」は自明である。次に、判断がbの意味で純粋のとき(つまり経験的なものに適用されていないという意味で純粋bなとき)、判断はaの意味で非純粋ではあり得ない。つまりこの条件下では、「認識の限定根拠に経験的なものが混入し、そのために認識が非純粋aになっている」ということは、カントの語法に従う限り、起こり得ない。なぜならbはそもそもアプリオリな認識について下された区別(適用の有無の区別)を表現するのであるから、判断はそもそもaの意味で非純粋(つまり非アプリオリ)ではあり得ないのである。

   しかしながら、残るひとつの組み合わせでは事情が異なっており、注目に値する。判断がaの意味で純粋であっても、この判断は同時にbの意味で非純粋であり得る。換言すれば、判断はその限定根拠において純粋であっても、この根拠に限定される判断それ自体が何か経験的なものに関係づけられることはあり得るし、その場合判断は関係づけ(適用)の相において非純粋なのである。結局、純粋性と非純粋性については、斜めの組み合わせ(の一方)だけが両立可能な場合として許容される。

  さて純粋と非純粋の間に成立するこの両立可能性を、我々は『判断力批判』と『純粋理性批判』を区別するための指標としても利用できる。カント自身が言うとおり(前掲のカントの論文『哲学における目的論的原理の使用』の同箇所を参照)、『純粋理性批判』はただひとつの例外箇所を除いて「純粋」概念を単一の意味で使用し、それはつねに限定根拠における認識の純粋性aである。これに対して(直ちに示すように)『判断力批判』は純粋・非純粋の概念をともどもふたつの意味(ab)で使用するのであって、このことは両著作の差異に数えられてよい。

   (2) 以上の考察を踏まえて『判断力批判』の分析を深めよう。この著作における純粋・非純粋という概念の振る舞いは、上述の観点から次の四つの型に分類整理することができる。

   まずカントが「限定根拠において非純粋な趣味判断(つまり非純粋aなそれ)に言及する場面がある。いうまでもなくそれは、この種の趣味判断を本来的な理説から排除する意図においてのことである。例えば2節段落1で言う。「いささかでも関心が混入した美についての判断は党派的であり、純粋な趣味判断ではない。」ここに言う「混入(mengen)」が限定根拠への(関心の)混入であることは、この文言の置かれた第一契機の叙述が満足(Wohlgefallen)という形での趣味判断の限定根拠を主題に持つことから明らかである。それゆえこの引用文の言及対象は「限定根拠において非純粋な趣味判断」である。

   これに対して「直感的判断力批判」の本来的主題を積極的に画定する意図から、カントが「限定根拠において純粋な趣味判断(つまり純粋aなそれ)を積極的に主題化する局面がある。例えば「単に経験的な満足が判断の限定根拠に混入していない限りにおいてのみ、趣味判断は純粋である」(142段落)、あるいは「単に形式の合目的性を限定根拠とする趣味判断が純粋な趣味判断である」(13節末尾)。この純粋aな趣味判断と前に挙げた非純粋aな趣味判断の間には(先に述べたように)両立不可能性があり、したがって両者の間には領域的排他性――一方に属すなら他方には属さないという区別――が成立している。この純粋性aの出現箇所を挙げておこう。6節、13節表題、13節末尾、14節、分析論総注3段、演繹の表題、30節段落242節段落89

  ではもうひとつの純粋・非純粋bについてはどうか。周知のようにカントは16節で二種類のpulchritudo vaga et pulchritdo adhaerens)の区別を導入する(前者を遊離美、後者を固定美と訳す)。この区別はもちろん限定根拠における純粋性・非純粋性aの区別ではなく、飽くまでも純粋aな趣味判断に付加された区分である。なぜなら遊離と固定はその名が告げるとおり、美という類にほどこされた下位区分にほかならないし、また美という語は次に見るとおり、限定根拠において純粋aな趣味判断に固有の術語だからであるーー実際、「前者(経験的な直感的判断)は快適を言明し、後者(純粋な直感的判断)は美を言明する」(141段)。それゆえ二つの美の区別を導入する16節が、第二の純粋性・非純粋性bの導入される地点であって、次の一連の文章が第二の純粋性を定立する当のものである。つまり次の文こそが、純粋aな趣味判断がさらに何か経験的なものに適用され、そのことによって非純粋化bする過程を表わす当のものである。まずは表題「一定の概念の制約のもとで対象を美しいと言明する趣味判断は純粋ない」。そしてまた「後者(美についての満足)に関する趣味判断が、理性判断たる前者(内的目的との関係における、ものの多への満足)に含まれる目的に依存させられ、それにより制約されるなら、それはもはや自由で純粋な趣味判断ではない」(段落6という)というくだり。さらにそれと同時に、経験的なものへの適用を受けていないという意味での純粋性bも、16節では導入されている、すなわち「純然たる形式による遊離美の判定では、趣味判断は純粋である」(段落3)。

   注意されたい。この最後の引用文に現れる純粋性は限定根拠における純粋性aではあり得ない。もしそうであると仮定するなら、この文の意味するところは「遊離美は美である」というトートロジーになるだろうが、私は、趣味判断が概念によって制約を受ける・受けないという区別を語るこの文脈内に、判断の限定根拠をめぐるトートロジーをわざわざ配する理由に思い至らないのである。むしろこの用例は純粋bに属していると考えるべきである(そして16節最終段落の二例もまた)。16節での純粋・非純粋という術語の用法は、アプリオリな趣味判断が何か経験的なものの混入を受けない受けるという意味での純粋性・非純粋性に対応しているのである(つまりタイプb)。しかしこの純粋性・非純粋性は(先に見たとおり)限定根拠における純粋性aとは独立であり、まさにそれゆえにそれと両立可能である。したがって我々が遊離美と固定美について次のような一見奇妙な陳述を試みても、それは有意味な陳述なのである・・・「遊離美は純粋で純粋な趣味判断の対象であり、固定美は純粋で非純粋な趣味判断の対象である」と。(なお純粋 bの他の出現箇所は17節段落3、同段落6の副詞、48節段落4の副詞である。)

  さらにこれら二つの趣味判断についてはそれぞれ注意すべき点がある。

  (3) まず遊離美に目を向けよう。適用について純粋bな趣味判断の対象が遊離美である。それゆえ「純粋a趣味判断」と「遊離美」の関係は、「純粋aな趣味判断」と「純粋aで純粋bな趣味判断」の関係にほかならない。だが「純粋」が否定的概念であるために、両者の間には紛らわしい関係が生じており、この紛らわしさは具体的には実例の紛らわしさという姿をとる。

   14節でカントが純粋趣味判断の対象の実例として挙げたものは以下のとおりである。形態(Gestalt)の芸術(絵画・彫刻・建築・造園)については構図(Zeichnung)であり、遊動(Spiel)の芸術(身振・舞踊・音楽)については構成(Komposition)であり、補足的ながら、感覚についてはその単純性であった。他方、遊離美つまり純粋aで純粋bな趣味判断の対象の実例としてカントが挙げるのは(16節)、花、鳥、貝、ギリシア風の模様、壁紙の葉飾り、主題なきファンタジーレン(いわゆる絶対音楽?)、歌詞なき音楽であった。

   両者の実例はよく似ている。「形態の芸術における構図、遊動の芸術における構成」と、「花・鳥・貝などに見られる模様、音楽的構成と歌詞抜きの音楽」。両者の実例は同一視したくなるほど酷似している。しかしこの紛らわしさが「純粋(rein)」という概念が否定的概念であることに起因することは、ここまでの我々の所説に照らせば見やすいことである。遊離美とは何であったか。限定根拠に形式以外の異物を混入させていない趣味判断が(これが純粋a趣味判断にほかならないが)、さらに直感的(ästhetisch)な領域から見て異質なものへと適用されていないこと(純粋b)、それが遊離美にほかならない。それゆえ「純粋趣味判断」と「遊離美」の形式上の差は適用の視点を含むかどうかの差である。後者はそれを含み、前者は含まない。ところが遊離美ではこの適用が行われていないというのであるから、結局、純粋趣味判断と遊離美の間には、形式上の差異はあるにも拘らず、実質的な差異がない。両者は異なる意義を持つが同じものを指示するのである。

   この事態は次のような喩えを使えば解りやすいだろう。搾りたての牛乳(原乳)という概念と、ある栄養分を加えた牛乳(添加牛乳)という概念はもちろん異なる意義をもち、また異なるものを指示する。しかし原乳と添加乳は・・・後者が添加しないことを意味する以上・・・異なる意義を持ちつつも同じものを指示するのである。一般に否定的概念はこのような紛らわしさを招来するのであり、同じことが否定的概念「純粋」について遊離美をめぐって生起したのである。

   カント美学をアラベスクの美学とみなす論者がいる。この立場は二つの認識に支えられているのであって、ひとつは純粋趣味判断を本来的な趣味判断と見る認識であり、他は純粋趣味判断を遊離美と同一視する認識である(後半の不当性は上述)。たしかにカントは14節段落1で「本来的(eigentlich)」という語を使う。「経験的な直感的判断は感覚判断(質料的直感的判断)であり、形式的直感的判断たる後者(純粋な直感的判断)だけが本来的な趣味判断である。」しかし本来的という形容は限定根拠における趣味判断の純粋性aを意味するのであって、決して適用についてのそれbを意味しない。ふたつの純粋性を混同すれば、遊離美(自由美)こそが『判断力批判』の本来的主題であるという見解に陥るだろうが、このような愚論にははやく終止符を打ちたいものである。

 総括してみよう。「直感的判断力批判」の真の主題は純粋aで非純粋bな趣味判断である。具体的には「美のイデアール(理想)」の制約のもとに立つ純粋ならざるb判断がその真の主題である。そもそも「直感的判断力批判」は崇高論を別とすれば、その全体が一貫して趣味判断の理説である。ただしその分析論の叙述は二段階の構造を持つのであって、前半(40 節まで)は純粋 aな趣味判断論を、また後半は非純粋 bな趣味判断論を展開する(16.17節は後半への予告に相当する)。関心に依存しない純粋な趣味判断の問題意識が40節までを統制し、関心を混じえそれによって制約を受ける非純粋な趣味判断の問題意識が41節から54節の叙述を統制している。そして趣味判断論のハイライトをその適用に見る限り、純粋趣味判断にこそ『判断力批判』の本来的主題を見ることが正しい。だが私が強調したいのはむしろ次の事柄である。

過去の論文の中で(『判定構造論の構造』、美学、1988)、私は『判断力批判』でのカントの趣味判断論を飽くまでも一個の「判定構造論」として解読することを提案した。そのとき趣味判断のエレメントとして普遍・特殊・比較・判定(包摂)の四つを見出すとともに、趣味判断の解明(Exposition)と演繹(Deduktion)がこれら四契機をめぐる解明と演繹に他ならないことも示した。だがこの成果は新しい方法への道を拓くだろう。40節までの純粋 a 趣味判断論から41節以降の非純粋 b 趣味判断論への問題意識の変更、この変更の経緯の分析にもこれと同様の方策を取ることができるのではないか。具体的に言うなら、40節以前から41節以後への移行を・・・カント自身が42節の段落7で実行したように、単に関心による限定根拠の非純粋 b 化として説くのではなく・・・むしろ判断の四つのエレメント(普遍・特殊・比較・判定)それぞれにおける非純粋 b 化として描きだすことができるのではないか。そのようにしてこそ、カントの趣味判断の構造をいわばスペクトル分解し、これを立体的に視野に収めることが可能になるのではないか。「直感的判断力批判」はそのための十分な材料を与えている、と私は考えるのである。しかしこれも別稿に譲らなければならない。

 

 いま我々が確認できるのはた次のことである。すでに固定美に関して述べたように、abの二種類の純粋性概念の両立可能性ゆえに、純粋性aと純粋性bの間にあるのは領域的排他性ではなく、互いに独立な問題意識に由来する単なる視点の差異性だけである。その意味で私は始めに掲げた「異説」に対して次のように応酬することができる。カントの「直感的判断力批判」において趣味判断は純粋であり、同時に純粋でない、カントはまさにそのようなものとして趣味判断を定位していると。

 

  [典拠の吟味]

 異説がその典拠としてあげた文章に関して私はこう考える。まず当の文章を掲げておこう。「(感覚の)快適さが美と結合することは趣味判断の純粋性を妨げるが、同様に善(ものそのものにとって、そしてものの目的からみて、ものの含む多がそれのために善しとされるそれ)が美と結合することは、趣味判断の純粋性を毀損する」(16節段落4)。

 カントの文章は危うい。純粋性概念が一義的であると読者に錯覚させかねないことを、カントは『判断力批判』の16節のこの文章でしているからである。快適と善がいずれも趣味判断の純粋性を毀損するという言い回しは、両者がそれを同じ仕方で毀損することと受け取られやすい。そうではない。

 

カントのこの書法には微かながら修辞的技巧の影を認めることができる。類(全体)の名が種(部分)の表示に修辞的に転用されているからである。たしかにこれら二つの「純粋性」は、「異質なものの排除」という純粋性概念の一般的意味を共有する。しかし共有されるのはそれだけであって、二つの純粋性(Reinigkeit)は決して同じ内容を表していない。何度も言ったように、文章前半のそれは限定根拠における趣味判断の純粋性aを意味し、後半のそれは適用における趣味判断の純粋性bを意味するのである。それゆえ、この文章の役割はむしろ、41節以後を歴とした趣味判断論(ただし非純粋bな趣味判断論)として解読する可能性を予告することにあると言わねばならない。ただカントは両者が純粋性という同じ類の二つの種であるという理解のもとで、一定の修辞技法に沿いつつ、各々の種を表すのに同じ類の名を使用したのわけである。カントのこの文章を盾に純粋性概念の一義性を持ち出すことはできないし、またこの文章に誘われて、趣味判断があらゆる非純粋性から自由であると夢想してはならない。繰り返して言う、ふたつの純粋性は同義的でなく単に同類的なのである。

 


 追記 ) 本論文は、かつて京都大学美学美術史学研究室編、『芸術の理論と歴史』(思文閣出版.1990年)に共同執筆者の一人として提出した論文を、若干の措辞の変更を加えつつ、ほとんどそのまま転載したものである。併せて、当時は制限枚数の縛りがあって付すことができなかったカントの資料を、遅ればせながらここに注として添付しておく。

 

 注:『哲学における目的論的原理の使用について(Über den Gebrauch teleologischer Prinzipien in der Philosophie)』より、アカデミー版カント全集Ⅷ.S.184.  から。

 「この機会に、かなりの人々が私の著作に矛盾(Widersprüche)なるものを発見したと非難している件に一言触れておく。人々はこの著作全体に眼を通さないでこの非難をしているのであり、他の箇所と結びつけて読めば、矛盾はおのずからすべて氷解するのである。「ライプツィヒ学術新聞」(1787.No.94)によれば、1787年版の『(純粋理性)批判』の序論の37行目の内容は、すぐ後の51行目と2行目の内容と真っ向から矛盾しているとされる。なぜかと言えば、前の箇所で私は、アプリオリな認識のうちで経験的なものが一つも混入して(beigemischt)いないアプリオリな認識を純粋(rein)と呼び、そうでない[純粋でない]認識の例として、「すべて可変的なもの(alles Veränderliche)は原因をもつ」という命題を挙げているのに対して、その5頁ではまったく同じ命題をアプリオリな純粋認識の例として、すなわち一切の経験的なものに依存(abhängig)しない認識の例として持ち出しているからだ、と。[だが実際はこうなのである。]「純粋(rein)」という言葉には二つの意味があるということ、そして私は著作[純粋理性批判]ではこの言葉を一貫して後の方の意味で使用したのである。」

 この引用箇所は私の所説と完全に一致する。「純粋(rein)」は両義的である。実際、カントは最初の下線部すなわち「アプリオリな認識のうちで、経験的なものが一つも混入して(beigemischt)いないアプリオリな認識」は純粋だと言うが、本論文の私の表記でそれは「純粋b」に相当する。また二つ目の下線部すなわち「一切の経験的なものに依存(abhängig)しない認識」も純粋とされるが、私の表記でそれは「純粋a」に相当する。そしてカントは『純粋理性批判』でreinを・・・序論の37行目を除いて・・・一貫して「後の方の意味で」つまり「純粋a 」の意味で使用したと説明しているのである。このことは『純粋理性批判』と『判断力批判』の差異の一つに数えられて良い。第一批判では 「純粋b」の用例は一回に止まるのに対して、第三批判では「純粋b」の用例は「純粋a」の用例と頻度において拮抗するからである。

 

(追記 )上でも述べたように本論文は、私がかつて京都大学美学美術史学研究室編、『芸術の理論と歴史』(思文閣出版.1990年)に共同執筆者の一人として提出した論文を、本ホームページ上に転載したものである。この転載を許諾された思文閣出版株式会社に厚く感謝する。

 

 

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