(B)  (Was sind und was sollen die Zahlen?)』(1888)

(「初版のまえがき」の初めの三つの段落)


学問(Wissenschaft)では、証明可能なことを証明なしに信じてはならない。これは至極当然の要求だと思われるが、論理学(Logik)でもっとも単純な部門、すなわち数の理論を扱う論理学の部門の基礎づけにおいてさえ、最新の[研究]事例に限っても、この要求はまだ満たされていない。私は算術(代数、解析)(die Arithmetik(Aigebra,Analysis))を[いま]論理学の単なる一部門扱いしたけれども、それは「数概念は、空間(Raum)および時間(Zeit)の表象(Vorstellung)から、つまり空間および時間の直観(Anchauung)から完全に独立(unabhängig)である」という趣旨であり、また「数概念はむしろ純粋思考法則(reine Denkgesetze)の直接的所産である」という意味でもある。本書の表題として掲げた問いに私が与える主たる解答は、「数は人間精神の自律的な創出物であり、数とは物と物の差異性(Verschiedenheit)を簡便かつ鋭敏に峻別するための手段(Mittel)」ということに尽きる。[自然]数の学が論理的に構築され[その自然]数の学を通じて連続数(stetige Zahlen)の領域が確保されてこそ、そして空間と時間の表象を、自らの精神が創出したこの数領域に関係づけてこそ、人間は空間と時間について自らが抱く表象を正確に研究することができるのである。物の集まり(Menge)を数えたり、物の個数(Anzahl von Dingen)を数えるとき自分がしていることを正確に省みれば、人は、物に物を関係づけたり(beziehen)、物と物を対応させたり(entsprechen)、物で物を写しとったり(abbilden)といった、およそ、それ抜きでは思考が成立しない一連の精神の能力に想到するはずである。本書の[出版]告知ですでに明らかにしたように、私見によれば、この唯一の、いや唯一でないとしても不可欠の基礎に立って(auf dieser einzigen,auch sonst ganz unentbehrlichen Grundlage)、数の学問は全面的に組織されなければならない。こうした著述の構想は、連続性についての前著の編纂以前にもあるにはあったが、前著の出版が終わってから、公務の増大やその他の止むに止まれぬ仕事ゆえの数度にわたる中断を経て、1872から1878年にかけて最初の原稿(Entwurf)を書き上げることができたし、幾人かの数学者にはそれに目を通して頂き、一部とは言え論評も頂戴した。原稿の表題は本書と同じであり、原稿のすべての思想も本書のそれと本質的に同じであり、ただ本書ほど完全でなかった配列に丁寧な仕上げが必要であったくらいである。ここで以下の事柄を[本書の]主たる論点として列挙しておこう。有限と無限の正確な区別(64)、物の個数の概念(161)、「完全帰納法(nからn+1への推論)の名で知られる証明法が実効的な証明性能を有することの論証(59,60,80)」、さらに「帰納法(あるいは再帰法)による定義(Definition)もまた確固たる(bestimmt)矛盾のない(widespruchsfrei)定義であることの論証(126)」など。


本書の内容はいわゆる良識(gesunde Menschenverstand)の持ち主でありさえすれば誰もが理解できるものであり、それを理解するのに思想的または数学的な学識はいささかも必要でない。もちろん私は重々承知している。私が [数について] お示しする仄暗いイメージを前にして、少なからぬ読者が、それは自分が生涯を通じて忠実で懐かしい友と信じて交わってきたあの数とは似ても似つかぬ代物だ、と受け止めるだろうことを。また読者が、いわば階段状の知性(Treppenverstand)を持つ人間にとって避けがたい単調で長々しい推論の連鎖に恐れをなし、数の諸法則のよって立つ思考系列の味気ない分析に背を向けるだろうことを。そして彼らが、彼らの言う内的直観Ï(innere Anschauung)とやらのお陰で初めから(vornherein)明らかで確実に見える(erscheinen)真理のために、[わざわざ]証明の過程をたどるだけの忍耐力に欠けていることを。だが私の考えは違う。真理の所有、真理への信頼は決して内的直観によって直接もたらされるのではなく、一つ一つの推論の(程度の差はあれ)完全な反復(Wiederholung)によって初めて獲得されるものである。私はまさにこのことの説得的な証拠を、たとえ推論の系列が長ったらしく作為的なものになろうと、ある真理を別のさらに単純な真理に帰着させることができることのうちに見る。あまりに早く進行するので後を追い切れないこの思考活動を、本を読み慣れた読者のする思考活動になぞらえてみよう。熟達した読み手もまた、初心者が苦労して活字を追うときの一歩一歩の歩みを、程度の差はあれ繰り返している。ただ熟達した読み手は、適正で正しい言葉を読み取るのに、その繰り返しを僅少にとどめ、精神の労苦と緊張もまた僅少にとどめつつ、それを行うのである。もちろん正しい言葉を「高確率(Wahrscheinlichkeit)」で読み取る、と言うべきなのだろう。なぜなら周知のように老練な校正係でも時として印刷ミスの見逃し、つまり読み間違いはするものだからである。でも活字を追うのに必要な思考連鎖が完全に反復される限り、読み間違いは起こらない。人間は生まれてこのかた、物を物に関係づけるように、またそうすることによって数の創出がよって立つ精神の性能を行使するように、常にそしてますます高度に促されていくものであり、生後、時を置かずして始まる(意図的ではないにせよ)止むことのない訓練と、それに伴う判断と推論系列の形成を通じて、我々は実は(eigentlich)一連の算術的真理の宝をすでに手にしているのである。[ところが]その後、最初に出会う教師たちが、この算術的な一連の真理を話題にするとき、それを何か単純なもの(Einfaches)、自明なもの(Selbstverständiges)、内的直観に与えられたもの(Gegebenes)として引き合いに出す(sich berufen auf~)ために、若干の、実は極めて複合的な概念(たとえばものの個数の概念)が単純な概念と誤認されるのである。このことを人口に膾炙した言い回しを真似て言えば、εἰ   ό   νθρωπος   ριθμητίξει (人は常に算術する)といったところだろうか。私は以下の章句が、統一的な基礎に立って数の学問を編成する試みとして、好評をもって受け入れられることを望んでやまないし、また他の数学者によって、その長々しい推論系列がそれにふさわしい読みやすい長さにまとめられることを切に願う次第である。


本書の趣旨に沿って、以下の考察はいわゆる自然数(natürliche Zahlen)の列に限定する。ゼロ、負数、分数、無理数、複素数がどのように創出されたかというと、まず(früher)概念があって、その概念を後から(später)一歩一歩拡張(Erweiterung)することによって、しかも異質な表象(たとえば可測量のような表象)を一切交えることなく拡張することによって、あの創出はなされたのである。管見では、この作業の手順( Art)は数の学問(Zahlenwissenschaft)があってこそ十分な明晰性の高みに達するのであり、その辺の事情は、連続性についての前著(1872)で少なくとも無理数の場合については詳らかにしたところである。その§3でも表明しておいたように、他の拡張も容易に同様の仕方で処理できるので、このテーマを扱うのは[他の拡張も含めて]それらを総括的に扱う別の発表の機会(die zusammenhängende Darstellung)に委ねることにしよう。私は、「代数と高等解析の命題がいかに高遠なもの(fernliegend)に見えようとも、それは自然数についての命題として陳述されている」、という言葉をディリクレの口から幾度となく聞かされたが、先ほど来の議論を踏まえれば、この言葉はなんら奇異ではないし、[むしろ]自明とも思えるのである。だが、[代数と高等解析の命題を自然数についての命題に書き換える]この難儀な書き換え作業に実際に携わったり、自然数以外は利用せず認めもしないという姿勢をとったりすることは、ディリクレに相応しくないのはもちろんのこと、私から見てもその労苦に値するものではない。そうではなく、数学にせよ他の学問にせよ、実り豊かな進歩というものは、何を措いても新しい概念の創出とその受容によって齎されるのである。そこには、古い概念を使う限り辛苦の果てにしか制圧できなかった複雑な事象が際限なく登場し、そのことがその[新しい概念の]創出と導入を後押ししたという経緯がある。私は1854年の夏、ゲッチンゲンでの私講師の教授資格取得(Habilitation)に際して、このテーマで哲学部(philosophische Fakultät)に報告をあげることを求められ、その報告の趣旨はガウスも含めて承認されたのだが、ここではこの件に立ち入るのはやめておこう。[段落3までの翻訳、終わり]

   



 

 
 
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