[翻訳]  W・ホガースの『美の分析』(1)

ウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697-1764) の『美の分析(The Analysis of Beauty) 』(1753)の部分訳です。彼の個性なのか、それともラテン語教育の影響なのか、原文は省略と飛躍が多く、誤読の可能性の高い文章です。『美の解析』の緒言、序文、および本文の第1章から第10章について、とくに理論的に重要な段落を選んで翻訳します。

底本には Ronald Paulson 編:"William Hogarth:The Analysis of Beauty."  Yale University.1997. を使用しました。

  

 

 序文(Introduction

 

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(序文段落14) 対象の内部
「それにも拘わらず[つまり堅固な原理を欠く絵画の跳梁跋扈するなかで敢えて]、私は、線の多様性(variety of lines)を詳細に考察する計画を[先ほど]皆様に提起したのである。[その場合]線の多様性によって諸物体(bodies)のイメージ(idea)を心に思い浮かべることが可能になるわけだが、当然、その線は剛体や不透明物体の表面に引かれた線という体裁を取らざるを得ない。しかし私は[剛体や不透明物体のイメージに頼りつつ、実はむしろそれの]表面の「内部(the inside)」を想像(conceive)し、それを可能な限り正確な(accurate)イメージとして処理したいのである。もちろん表面の内部という表現が許されるならばの話だが。この試みは我々の研究を進めるうえで大いに助けとなると思う。」

(序文段落15) 「外側の表面」と「内側の表面」の二重視
「論旨がちゃんと伝わるように、こういう言い方をしよう。考察されている対象(object)から内容物を上手にえぐり出し、薄い殻(shell)だけが残るようにする。しかも殻の外側の表面(surface)は外側の表面で、内側の表面は内側の表面で、それぞれ対象それ自体の形態(shape)に正確に対応(correspond)するものとする。そこでこう考えよう。まず非常に細い[複数の]糸(very fine threads))を考え[これが円周状の糸であることは下の段落17と段落19でわかる]、それが緊密に編み込まれた(connect)のがその殻であるとし、しかも糸は[殻の]外側からも内側からも眼で見ることができると仮定する。この殻の二つの面のイメージが、[どちらも対象の形態に対応する以上]当然重なる(coincide)ことはおわかりだろう。殻という言葉を持ち込むことで、二つの面を等しく(alike)見ているように感じさせようというのである。」

(序文段落16) 内側からの眼差し
「これを思いつきと揶揄する向きもありそうだが、以下の論述が進むにつれてその有効性は明らかとなる。対象を殻の姿で思い浮かべることによって、自分がいま[外側から]見ている対象の表面の特定の部位の把握が容易になり安定化する。なぜなら、対象を殻として思い浮かべることによって、特定の部位を含む全体(whole)についての知見が完成度を増し、[翻って]自分がいま見ている対象の表面の特定の部位の把握も容易になるからである。どうしてだろうか。想像力(imagination)は当然のようにこの殻の空っぽの空間(vacant space)に入り込み、まるで中心に立っているかのようにして(as from a center)、内側から一瞥で(there at once)全体を眺める。ところが[内側から全体を一瞥するのだから]その殻の互いに張り合う諸部分の対応(the opposite corresponding parts)が強く意識され(mark)、全体のイメージが確保される(retain)のである。私たちが対象の周りを歩き、ただ外側から眺めるだけで、対象のあらゆる眺望の意味(meanings)を把握できるのは、そのためである。」


(序文段落17) 外接
「そうすると、[たとえば]球(sphere)について我々が持ちうるもっとも完全な理解はこうである。まず眼が置かれた中心からあらゆる方向に向けて発する、長さの等しい無限個の直線状の光線を考える。そのうえで、緊密に連結(connect)した円周状の糸たち、あるいは線たちによって、これら無限個の直線光の中心でない方の無限個の端点の外接図形を描いてやれば(circumscribe)、つまり前者で後者を包んでやれば(wind about) 、それで真の球状の殻のできあがりである。」

(序文段落18)  全体をあらかじめ別の仕方で見ておくこと
「しかし不透明な対象の場合、通常の眺め方をするかぎり[つまりそれを殻と見なさないままで対象を外から眺めるかぎり]、人は眼に対峙している表面の部分(parts)にのみ心を奪われるものであり、向き合っている部分はおろか、どれであろうとそれ以外の部分はその時点でまったく度外視される。対象の別の部位(side)を見るために少しでも動こうものなら、当初のイメージは混乱せざるを得ない。二つのイメージ[現に見ている面の部分と、いまは見ていない別の部分]の連結(connexion)が欠けているためにそうなるのである。連結は全体についての完全な知識が当然あたえるものであり、そのためには全体をあらかじめ別の仕方で(in the other way before)[つまりあらかじめ内側から]観ておく必要があるということである。」

(序文段落19)  輪郭とはなにか
「対象をあくまでも[円周状の]線たちから構成(compose)されていると考えることには、[対象を外側から眺めるだけで、対象のあらゆる眺望の意味を把握できるという利点(段落16)だけでなく]、もう一つの利点がある。それは、この考え方によって人体(figure)のいわゆる「輪郭(out-lines)」の正しい十全な理解に到ることができる、という利点である。従来、人体の「輪郭」とされていたものは、紙に描いたときに見て取れる、狭い意味での輪郭に過ぎない。なぜなら上の球の例でいえば、想像上のどの円周状の糸も、球の輪郭として扱われる[同等の]資格を持つからである。[球の]見える半分を[球の]見えない半分から区分する糸だけが輪郭なのではない。[むしろこう考える。]眼が球のまわりを規則的に動くと想定すると、これらの[見える半分を見えない半分から区分する]糸たちは、それぞれーー狭い意味でのーー輪郭の勤めを果たしながら規則正しく順に登場し(succeed)、一方で、眼の動きに応じてどれかの糸が視野に入るとき、他方ではそれに張り合う(opposite)別の糸が姿を消す(disappear)のである。[真に輪郭の名に値するのはこの「輪郭たち」である。]不規則な人体の表面の場合でも、このやり方で、物質的な複数の点たちや線たちの距離、方位、対置関係の完全な理解に励むなら、君は、対象自体がもう眼前になくても人体を心に呼び戻すコツをいずれ会得するのである。そのイメージ(idea)は、立方体や球のようなきわめて明快で規則的な形式(form)のイメージに負けず劣らず、強固で完全なイメージである。それは、実物を見て描く人には正確さをもたらし、[実物に頼らずに]想像(fancy)で創案(invent)しながら描く人には無限の貢献をなす[一切をもたらす]ことだろう。」

 

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 本文

 

第1章  適合性 (Fitness)

 

(第1章段落1) 適合性

「技術(art)であれ自然(nature)であれ、個々のものがある設計(design)に向けて[互いに]組み立てられている場合、すべての部分がその設計に適合していること(fitness)がまずもって重視される。実際、これら諸部分の適合性が全体の美を大きく左右するからである。[だが]このことが余りにも明々白々なので、美[が心に入り込むため]の偉大な玄関である視覚(sense of seeing)までがこの適合性に欺かれてしまう。例えば、形におけるこの種の価値[適合性の価値]に目が眩み、心が、他の点では美しくもないのに、ある形を美しいと崇めるときがそうである。その場合、眼は自分の所有する美の貧しさを忘れている、そしてその貧しい美に馴れ親しむ期間が長くなるほど、[かえって]その貧しい美に喜びを感じるものなのである。」

 

(第1章段落2) 不適切な使用

「だが一方でこういうことも知られている。高度の優雅さ(elegance)を持つ形であっても、使い方が不適切だと、眼に不快感を与えることがある。捻れた柱はたしかに装飾性に富んではいるが、脆弱というイメージが付きまとうので、不適切にも巨大さ(bulky)とか重量感(heavy)を前面に押し出した物の支持体に使用すると、かならず不快の念を引き起こす。」

 

(第1章段落3) 適合性と適格性

「対象の容量(bulk)や比率(proportions)は適合性(fitness)と適格性(propriety)で決まる。椅子、テーブル、一切合切の道具や家具などのサイズと比率を決めてきたのはそれである。大きな重量を支えるための柱やアーチなどの寸法を決めてきたのもそれであり、建築のあらゆるオーダー(orders)から窓やドアなどの寸法に至るまで規制してきたのもそれである。だからたとえ大きな建物でも、階段の一段一段、窓腰掛(seats in the window,室内の窓下に作りつけにした長い横椅子)は通常の高さを守らねばならない。さもなくば人は美と適合性を共々手放すことだろう。さらに造船においては、各部分の寸法は航海への適合性によっても制限され規制される。船がちゃんと航海すれば、船乗りはかならず船を美しい(beauty) と言う。二つの観念[適合性と美]はそうやって繋がってしまっているのだ。」

 

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第2章   多様性(Variety)  

 

(第2章段落7)   遠近法(変化の視点から)

「図47と図88の中間に(plate 1 右)、小舟の絵が挟まれている。この舟が海岸線と平行に、しかも眼と歩調を合わせて進むものと仮定しよう。この場合、船の上部と下部は、どこまで行っても等距離な[上下]二本の線を描く(A)。しかし船が外海に出ると、図Bのように、船の上部[が描く線]と下部[が描く線}は少しづつ(by degrees)変化し、(空と海が出会う水平線という名の線の上の)点Cで少しづつ会合する(meet)ように見える。こう説明すれば(thus)、遠近法を学んだことのない人でも、"美を増大するために、本当は変化していないものを、変化しているように見せるやり方”という理解のもとで、遠近法を受け入れてくれるかもしれない。」

 

 

3章  「一様性・規則性」=対称性 (Uniformity,Regularity, or Symmetry)

(この " , or " という見慣れぬ表記については第4章冒頭を参照。)

 

(第3章段落1)    対称性

「美という効果は、大部分、対象の諸部分の対称性(シンメトリー、symmetry)に由来している、だから諸部分がシンメトリーをなす対象こそ美しいのだ、と考える向きもあるだろう。しかし私には、優勢を占めるこの見解が根拠に乏しいこと、いやそれどころかそれが根拠を欠いていることを、今から明らかにしてみせる自信がある。」

 

(第3章段落2) 対称性は美に貢献しない

「たしかにシンメトリーは適格性(propriety)、適合性(fitness)、使用価値(use)といった意義深い特性(property)を持っている。しかしそうしたものは、眼をーーもっぱら美の観点でーー楽しませるという目的にはほとんど役立たないのである。」

 

[第3章段落3]  模倣の快

「実際、幼児期からそうなのだが、人間本性には模倣(imitation)を愛好する気持ちが宿っている。物真似を見れば、眼は驚き、そして楽しむ。一対のものが厳格に対応するのを見れば、眼は喜ぶ。しかしやがてこのような楽しみは多様(variety)に対するより高度な愛に取って代わられ、対応の楽しみ自体は退屈に転落する。」

 

(第3章段落4)  回転と移動

「かりに人体(figures)、部分(parts)、線(lines)に一様性(uniformity)が認められることが美の主たる要因であるというのが真実ならば、人体たち、部分たち、線たちの見え方(appearance)が厳密に一様(uniform)であればあるだけ、眼はより多くの喜び(pleasure)を手にしそうなものである。しかし実態はまったく違う。[例えば人体の]諸部分が高度の一様性を保ちつつ相互に呼応している、そして[そのために]立つ、動く、沈む、泳ぐ、飛ぶなどへの適合性という、諸部分[固有]の[一連の]性格が、バランスを失することなく、全体(whole)の性格として読み取られるとせよ。心はこのことに一度は満足するだろう。しかし眼は[やがて]対象が向きを変えたり(turn)、位置を変えたり(shift)して、先ほどの一様な見え方に変化を加える(vary)ことの方を喜ぶことだろう。」

 

(第3章段落5)    横顔の問題

「だから顔を含めて大部分の対象では、正面よりも側面(profile)の方がむしろ面白い(pleasing)のである。」

 

[第3章段落6)   顔の回転、顔の傾斜

「そこから次のことが言える。一方が他方に対して厳密に類似すること(resemblance)は、見て楽しい訳ではない。一方が他方に対して類似する裏に、適合性(fitness)、設計性(design)、使用目的(use)があると知ること(knowledge)が、楽しかったのである。[むしろ次の事実に眼を向けてはどうだろうか。]美しい女性の頭部が少しある方向に回転し、顔の両半分の厳密な相等性(similarity)の度合いが低下する場合、また頭部を少し傾斜させて、正式の正面顔の平行な数本の直線から少し逸脱するとき、それはかならずもっとも楽しいとされる。いわゆる頭部の優雅な(graceful)趣きとはこのことである。」

 

(第3章段落7)  位置を変更させる、斜交いに見る

「規則性(regularity)を避けることが絵描きが構図を決めるに当たって従う鉄則である。建築を見るときであれ、身の回りの対象を見るときであれ、我々は、もっとも楽しい見え方(view)を手に入れるために、位置に変更を加えることで (by shifting the ground) 、対象を我がものとしている。そしてその結果として、画家に選択の自由が認められている場合に限ってだが、それが眼にもっとも心地良いという理由で、対象を真正面ではなく斜交いに(はすかい、斜め、on the angle)受け取るのである。なぜなら、パースペクティヴに取り込まれるおかげで、適合性(fitness)のイメージを保存しつつも、線[相互]の規則性を薄めることができるからである。画家が必要に迫られて建物の正面を、その一定性(equality)と平行関係(parallelism)ともども描きこまざるを得ないときには、その前方に木を配するなり、絵には描きこまれない雲の影だけを描くなりする。多様性を増すという目的、同じことだが一様性を減じるという目的、このような目的に叶う別の対象をそこに置くことで、かかる不快な外観を(よく使う言葉で言えば)壊す(break)のである。」

 

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4章  単純性=明瞭性(Simplicity,or Distinctness)

 

(表題の "A, or B" という表記は、or がイタリックであることからもわかるように、普通の「A または B  」、「AさもなくばB」の意味ではなく、変則的に「AでもあるようなB、BでもあるようなA」の意味と考える。古臭い表現だが「A 即 B、B 即 A」に近いかもしれない。(第3章の表題も同様)。本章表題はとりあえず「単純明瞭性」と訳しておくが、それは論の流れから推して、本章の最後に登場する"Perplexity(見通しの悪さ)"の対立概念の位置を占めている。すなわち形の「単純明瞭性」とは「形としての見通しの良さ」「形がパッと掴めること」を意味する。微妙に違うが、心理学でいう「ゲシュタルト質」や「よい形の法則」を連想しないでもない。)

 

(第4章段落1)  単純明瞭性と多様性

「多様性を欠いた単純明瞭性(simplicity, or distinctness)はまったく味気ないもので、せいぜい目障りにならないことが取り柄である。しかしそこに多様性が加わると、単純明快さは楽しさを生み出す。なぜなら、単純明瞭性は多様性を労なく(with ease)楽しむ力を眼に貸し与え、[その結果]多様性に対する快楽が増大するのである。」

 

(第4章段落2)  少数の部分で成り立ちながら、もっとも多くの多様性を持つ形 (角錐)

「直線群で構成された対象の中で、ごく少数の部分で成り立ちながら非常に多くの多様性を持つ対象としては、角錐(pyramid)に勝るものはない。規底部分(base)から徐々に眼の水準を上げていくと、角錐は一定の仕方で[大きさの]変化を呈し、しかも眼が角錐の周りを移動しても、[円錐などと違って]いつでも同じという[単調な]印象を与えることがない。これがあらゆる時代を通じて、円錐よりも角錐が重用されてきた理由である。円錐では、光や影で変化を加えない限り、[どちらの方向から見ても]ほとんど同じに見えてしまう。」

 

(第4章段落3)   少数の部分で成り立ちながら、多様性を持つ形たち (角錐と円錐 )

「尖塔と記念碑がそうだし、絵画や彫刻の構成は[押し並べて]そうなのだが、円錐あるいは角錐の形式が採用されている。理由は円錐と角錐が、単純明瞭性と多様性という点で、もっとも望ましい枠組み(boundary)だからである。単体の人体より、[円錐・角錐の形に近い]騎馬像の方が楽しいのもそのためである。」

 

(第4章段落4)  彫刻におけるその実例

「古代近代を通じて彫刻の世界でかつて製作されたもっとも素晴らしい群像(ラオコーンと二人の息子)の(三人いるという)作者たちは、どこからみても大人の体型を持つ息子たちを父親の半分の大きさにするという愚を犯してまで、三人の構図を角錐の枠組みに収めようとしたのである(fig.9,plate 1 top)。それを悪天候から護るための、あるいはそれを運搬するための木箱の作成を依頼された経験豊かな職人は、構成の全体が角錐の形の中に容易に収まることを直ちに見てとるだろう。」

 

(第4章段落5) 一様性と多様性のせめぎ合い

「一般に、尖塔などが円錐形をとらないのは、[角錐と違って]単純明瞭性が過度に及ぶことを嫌ってのことである。それで円形の基底をやめて[角錐になるように]複数の辺を持つ多角形を[基底に]置くのである。しかしそのとき辺を偶数個にすることがあるが、それは[今度は逆に]一様性(uniformity)を狙ってのことかもしれない。しかしこの[偶数個の辺の多角形を基底に持つ角錐の]形を選んだとき、建築家は[実質 ]円錐で囲まれた全体の構成を思い浮かべていたのである。」

 

(第4章段落6)   ホガースの私見

「しかし私見を述べれば、私は奇数の辺を持つ多角形の方が、偶数の辺を持つ多角形に優っていると思う。どちらの多角形も同じ円で囲まれるし、いまの場合について言えば、どちらの角錐も同じ円錐で囲まれるのだから、[他が同じ以上、楽しいということを重視して]私は一様性よりも多様性を採りたいのである。」

 

(第4章段落7)  自然に証言させる

「私は、偶数であろうが奇数であろうがとくに違いがなさそうな場面でも、自然は大抵の場合・・こんな言い方が許されるとしてのことだが・・その空想の産物(works of fancy)において奇数を選ぶような気がしてならない。例えば葉っぱや草花や花びらなどのギザギザのように。」

 

(第4章段落8)  多様性と一様性のバランス

「多様性と一様性の結びつきの点では、三角形が正方形よりも、角錐が立方体よりも、そして楕円(oval)が円よりも優れている。現に卵がそうだが、楕円という図形は端っこの部分で縮小し、その意味で変化に富むので、多くの作家は、顔の輪郭を美しく描くときにはあらゆる多様性のなかからこの図形[楕円]を選ぶものである。」

 

(第4章段落9)  単純明瞭な形たちの複合体

「[通常の]卵に見られる以上に、楕円に円錐的な要素を追加すると、楕円は、かなりそれとわかる仕方で(more distinctly)、[楕円と円錐という]際立って変化にとむ単純明瞭な二つの図形の複合体(compound)に生まれ変わる。それがパイナップル(pine-apple)の形態である(fig.10,plate 1 top)。[さらに]自然はパイナップルに、一対の蛇状の線でできた豊満なモザイク状の装飾を与えてとくに際立たせている。この装飾を園芸家はピップス(pips)と呼ぶが(fig,11.plate 1 top)、[下方の]二つの「窪み(cavity)」とその間の丸みを帯びた突起からなるこのピップスは、それはそれで多様性に(varied)に富む。」

 

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(第4章段落11)   見通しが良いこと

「[様々なものに美をもたらす]単純明瞭性は、多様性にさえ美をもたらすことがこれで分かった。それは多様性の理解を容易ならしめることによる。単純明瞭性には、優美(elegance)な形で起こりがちな見通しの悪さ(perplexity)を防ぐ効果があるので、芸術作品は単純明瞭性の追求をおろそかにしてはならない。この点には次章で触れよう。」

 

 

 

5章 複雑性(Intricacy)

 

(第5章段落1) 追跡

「活発な心はいつも何かしないではいられない。我々が人生でなすべき最大の事業(the business) は、[何かを]追跡すること(pursuing)である。追跡は、他の価値が含まれていようがいまいが、[とにかく]楽しいのである。時として困難が追跡に敵対し追跡を妨害することはあるだろうが、それはかならず[逆に追跡に]ある種の心の張りと快楽を付与する。苦痛や労苦に終わったであろうことが、追跡によって娯楽(sport)や気晴らし(recreation)に変貌することもある。」

 

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(第5章段落3) 追跡の実例

「追跡をただ追跡のために愛することは、人間本性の常である。この愛はおそらく(no doubt)必要かつ有益な目的のために人間本性に設えられたのだろう。明らかに動物は追跡の本能を有している。好みの獲物でもないのに、犬は熱心にその獲物を追跡する。猫でさえ獲物を逃す危険を冒してまで、一度捕まえた獲物を[わざと放して]もう一度追いかけたりする。[人間の場合]極めて難しい問題解決に取り組むことは、心の楽しい労働である。喩え話や謎々は、それ自体取るに足らぬものでも、[それを解くこと自体は]心の娯楽になる。うまくできた芝居や小説の筋を追うときの心の喜び、筋が展開するにつれて増す喜び、そして卓越した筋の大団円で訪れる最大の喜びはいかばかりであろう。」

 
(第5章段落4
「曲がりくねった道や蛇行する川がそうなのだが、眼がこうした[追跡の]喜びを感じるのは、私が「波打つ(waving)」とか「蛇状の(serpentine)」と名付ける線(後述)で主に構成された形を持つ対象においてである。」

 
(第5章段落5) 複雑性
「私は形における複雑性(intricacy)をこう定義する。すなわち、形を構成する線たちが帯びるある特性であって、眼を「奔放な追っかけ(a wanton chase)」に誘い、[さらにその追っかけが]心に与える喜びゆえにその形に美しい(beautiful)という尊称をもたらす、そのような特性として複雑性を定義する。優美(grace)のイメージの根拠は、他の五つの原理以上にこの[複雑性の]原理と直結している。ただ多様性(variety)だけは別である。多様性は複雑性と残りのすべての原理の前提となっているのだから。」

 

(第5章段落6

「上記の観察が自然に実在的な基盤を有することを実感するには、読者はただ私からいろいろ聞くだけではなく、自分でさまざまな情報に当たって見る必要がある。」

 

(第5章段落7) ジャッキと円盤

「この話題に明るい光を投げかけるのは、お上品な形ではなくて、一般的なジャッキ(Jack)と円盤(circular fly)というありふれた実例である。その準備のために、まず図(fig.14.plate 1 top)に眼を向けよう。この図のなかの眼は、通常の読書の距離で、横に並んだ活字を眺めているのだが、ただ中央のAという活字に最大の注意を向けながら固定されている。」

 

 (第5章段落8)     一眼で見る

「字を読むとき、こういうことが起こっていると考えられる。ある光線(ray)が、眼の中心から、眼が最初に見る活字に向けて引かれていて、眼がその活字から別の活字に移動するにつれて、光線も継起的に(successively)線(line)の全長にわたって運動する。だが眼が特定の活字Aで停止し、他の活字以上にそれの観察(observe)に励むなら、Aのどちら側にせよAから遠ければ遠いほど(図を参照)、他の活字たちの見え方はますます不完全になる。そこで線上のすべての活字を等しく完璧に一瞥で(equally perfect at one view)見たければ、この想像上の(imaginary)光線は、線上をいわば高速度で(with great celerity)縦横に(to and fro)走り回る必要がある。したがって、厳密に言えば眼は一つ一つの活字に継起的にしか注意を向けられないのに、眼は上の芸当をやすやすと手早くやってのけるので、我々はかなりの空間を十分満足のいく仕方で一眼で見る(at one sudden view)ことができるのである。」


(第5章段落9) 中心光線
「そこで我々は、眼とともに移動し、どんな形であれその各部分をトレースするような、中心光線(principal ray)をどんな場面でもかならず想定する。それが、もっとも完全な仕方で[対象を]吟味(examine)する、ということの意味である。ある運動する物体(body)がたどる進路(course)を正確に追尾(follow)したということは、物体とともに運動するこの光線を想定したということに他ならない。」

 

(第5章段落10) 形が眼の運動を誘発する
「眼がこういう仕方で形を追う(attend)とき、静止した形であろうが運動する形であろうが、形の方がこの想像上の光線に運動を付与(give)したものとして意識される(found)。いやもっと適切に言えば、形の方が眼そのものに運動を付与したものとして意識される。しかもこの場合、その形は、まさに眼の運動を引き起こすことを通じて(thereby)、形の形態(shape)と運動に応じて程度の差はあれ喜びを引き起こしたものとして、意識される。だからこういうことがある。ジャッキの例に戻れば、眼と想像上の光線が重力の方向線に縛られて緩やかに(slowly)下降運動をするなら、あるいは[同じことだが]眼と想像上の光線が重量(weight)自体の下降運動を[そのまま]追うなら、どちらにしても心は疲労する。ジャッキが立っているとして、眼が盤の円周上のリム(rim,縁、ふち)の周りを高速で(swiftly)進んでも、あるいは盤のする回転軌道(circularity)上のある点を大急ぎで追いかけても、心はめまいを起こす。しかし(fig.15.plate 1 top)、回転ワーム[図15の右の機械部分]とそれに装着されたをワームの輪[図15の左の機械部分]を眺めるとき、我々の感覚は不快でもなんでもない。実際、静止していようと動いていようと、動きが遅かろうと速かろうと、回転ワーム[ジャッキ]はいつも楽しい(pleasing)ものなのである。」

 

(第5章段落11) 静止した回転ワームの楽しさ

「静止した回転ワームの楽しさに類するのが、棒(stick)に捻って巻きつけたリボンである。絵の額、暖炉、扉の枠などの彫り物に見られる定番となった装飾で、彫り師はそれを「棒とリボンの飾り」と呼ぶ。中心棒を省いたものは ribbon edge と呼ばれ、大概の服飾店で見ることができる。」

 

(第5章段落12) 運動する回転ワームの楽しさ

「しかし回転ワームが眼に与える喜びは、運動しているときの方が[静止しているときに比べて]、はるかに生き生きとしている。若いころ、自分が幾度もそれに強い関心を覚えたことは忘れようもない。その魅力的な動きに対して覚えたのと同じ感覚を、のちにあるフォークダンスを眺めながら感じたことがあって、その時のそれはいささか誘惑的だったかもしれない。お気に入りの彼女の姿が弧を描くとき[形の運動]、眼もあやなその姿を我を忘れて眼で追う私の脇で[追跡]、さっき話した想像上の光線がずっと彼女と踊っていたのを思い出す[光線]。」

 

(第5章段落13) まとめ

「この一例で、”形の複合的な複雑性の美”という言い方で私が伝えたい内容と、”形が眼をある種の追っかけ行為(chase)に誘い込む”という表現の正当性が、十分に明らかになったと思う。」

 

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