[翻訳] C・アインシュタインの『黒人彫刻』(1)

 

 カール・アインシュタイン(Carl Einstein;1885-1940)の『黒人彫刻(Negerplastik)』(1915)から、重要箇所を選んで翻訳します。底本は、Carl Einstein;Negerplastik von Carl Einstein.Verlag der Weissen,Bücher/Leipzig.1915.です。

[A]「方法への注意書き(Anmerkung zur Methode)」から

[B] 「宗教とアフリカ芸術」から

[C] 「絵画的なもの」から

 

 A「方法への注意書き(Anmerkung zur Methode)」

(段落2)  黒人への無知

「実際、黒人への無視はもっぱら黒人についての無知と対になっている。この無知が彼らに不当な重荷をかけているのである。」

 

(段落3)   アフリカ文化

「[本書の]図版を見れば次のことはおそらく明らかである。黒人は未開人ではなく、意義深いアフリカ文化を踏まえた存在である。エジプト農民に古代エジプト人が対応するように、おそらく現代の黒人にはありうべき古代[黒人]が対応する。」

 

(段落4)   「アフリカ芸術への思い入れ」の現象

「近代芸術をめぐる幾つかの問題意識が、アフリカ民族の芸術へのやや性急な思い入れ(Eindringen)を促すことになった。〈いつもそうだが(wie immer)アフリカでも具体的な芸術現象が起きていた〉だとか、〈[アフリカでも]人間はヨーロッパ[芸術]に対応する[芸術の]歴史を形作ってきた〉だとか、〈アフリカ民族の芸術がその中でも突出している〉だとか、そんな思い入れが広がり始めたのである。かつては無意味とされていたものが、造形芸術家の輓近の努力において意味を獲得する。〈明確な空間的問題意識と特定の芸術的創作手法が、黒人の芸術の場合ほど、純粋な仕方で形作られた例が他にあるか〉、といった物言いがそうでである。明らかに、黒人とその芸術に対して当節なされてきた[肯定的な]判定は、[黒人の芸術という]対象ではなく、それを判定する側の者について何かを語っている。[黒人芸術との]関係が更新されれば、情念(Leidenschaft)も更新される道理である。人々は・・・そう、情念にかられて(passioniert)・・・黒人芸術を芸術[品]として収集(sammeln)することに努めた。彼らは、[剽窃ならぬ収集という]合法的な活動を通じて(in berechtigter Aktivität)、古い材料に解釈を施し、新たな対象を形成したのである。」(この段落は批評的、反省的な文章であって、他者の言説のアインシュタインによる引用と、彼自身の地の文が混在していている。)

 

(段落5)   考察の段取 

「アフリカ芸術の簡単な叙述でも、近現代の芸術についての経験抜きでは成立しない。何かが歴史的に影響を及ぼすということは、かならず、直接的現在からの帰結(Folge)だからである。しかし[過去に対して現在がもつ]この関係という論点の分析は後置せざるを得ない。別の対象との比較で混乱を招くよりは、一つの対象に腰を据えて向き合うことを優先させるのである。」

 

(段落6    アフリカ芸術の研究の困難

「アフリカ芸術についての知見を全部かき集めても微々たるもの、曖昧なものに止まる。ベナンのわずかな作品を除くと、年代確定はまったくできていない。発見地から作品のタイプの分類ができたことが多少はあったが、それが何かの役に立つかと言われるとそうでもない。部族はアフリカ中を放浪し移動するものである。アフリカもご多分に洩れず(auch hier,wie anderswo)、呪物をめぐって部族同士で抗争を繰り広げ、威力と加護を求めて勝った部族は負けた部族の神々を奪取する。[だから]同一地域からしばしば似ても似つかぬ様式が出てきてしまい、作品についての複数の説明が試みられはするが、どれが正しいのやら決まらないといったありさまである。そのとき人々は、芸術に前期(früher)と後期(später)の区別を設けたり、二つの芸術の同時共存や、芸術類型の輸入行為を想定する習いである。[だが]どのやり方を取ろうが、差し当たり、この手の歴史的知見や地理的知見からは、ごく控えめな芸術認識すら出てこない。[それどころか]様式批判的な理論に立って歴史事象の連鎖を捏造したとか、単純から複雑へという物語を押し付けた、などと非難されるのが落ちである。その背景には、「単純(das Einfache)」はおそらく「最初(das Erste)」と同じことだろう、という思い込みがある。そこで人はつい、思考の「前提」や「方法」を出来事の「端緒」や「経過」にすり替えたのである。しかし[押し並べて]何かが「始まる(Anfangen)」ということは、この言葉を個人的で相対的な始まりの意味で使う場合も含めて、高度に複雑な出来事である。人間は一人でも、多くの何かを、多すぎる何かを表現している。」

 

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(段落8)    直観の次元

「だが[学問的情報という]代用品からではなく、事実から出発すべきである。そして民族誌等々のどんな知見よりも確かなのが、アフリカ彫刻(!)という事実だと私は思う。対象的なもの(das Gegenständliche)を・・・つまり周囲世界の連想がもたらす諸対象を・・・排除し、この[彫刻という]形成物を[飽くまでも]形象(Gebilde)として分析すること。どの彫刻だろうが、どの[スタイルの彫刻の]芸術形式だろうが、彫刻の[主題、彩色、素材などと独立な、飽くまでも]形式に関わる問題(das Formale)として、いつでも均等に(homogene)姿を表す、形(Form)の全体表象がどうやって生まれたのかを研究すること。しかし無条件で追随すべきものがあるように、[無条件で]回避すべきものもある。我々は直観に付き従い[これが前者]、直観固有の法則を逸脱することはない[これが後者]。しかし直観にも、ようやく見つけた創造性にも、自分流の思いなしを忍び込ませてはならない。便利な進化理論の持ち込みをやめよ。創造的な芸術事象を思考過程と同一視することをやめよ。心的過程に[ある種の生理学がするように]安易にプラスやマイナスの符号をつけることができるという先入観を捨てよ。芸術思考(Kunstdenken)とは、形とその世界を越えて、芸術作品を事象一般の中に位置づける手続きなのだから、その芸術思考と芸術制作を安易に一対のものとして扱うのをやめよ。」(この段落では、アインシュタインのフィードラー的傾向がむき出しになっている。)

 

 (段落9)       直観の溶接  

「しかし彫刻が形式的形象(formale Gebilde)として分析記述された場合、分析記述されているのは[単なる]対象性(Gegenständlichkeit)ではない。対象の[その特性についての]枚挙(Aufzählung)は、所与の形象を[いわば]置いてきぼりにする(überschreiten)。枚挙では、所与の形象は形象として処遇されておらず、その形象の内部に含まれないある実践への手引きとして処理されているからである。これに対して形の分析は、直接的な所与の枠内にとどまっている。なぜなら形の分析で前提されているのは、当のその形だけだからである。ただしこの形は、[直接的な所与を]一個の物(einzelne Dinge)として把握する働き(Erfassen)に奉仕している。というのはこの形は、形として、〈直観の溶接(Schweisen/Schweissen?)〉と〈直観の法則(Gesetze)〉を、同時に(zugleich)、語っているからである。[直観の溶接に服す限りでは]所与のものの領域に止まりつつ、[直観の法則に服す限りでは]ある認識に赴くのである。」 

(注記)「直観の溶接」については、「立方的な空間直観」の段落16cなどを参照。

 

(段落10)   空間創造と空間視覚の統一

「ある形象(Gebilde)について、[直観の溶接に服す]その空間創造と[直観の法則に服す]その空間視覚(Raumschaffen und Schauen) の間の固有の統一を押さえる(sich beziehen)ことができて、しかもこれらの統一の側から[逆にその形象の]形式分析(formale Analysis)ができるのなら、そのことがすでに、所与のその形象が芸術(Kunst)であることを証明している。人を〈この形象は芸術である〉という結論に導くのは、[人間に備わった]一般化(Generalisieren)の傾向なのだとか、先行する意思なのだと反論する向きもあるだろうが、いずれも間違いである。なぜなら、個別形式(Einzelform)は[たしかに]直観の正規の(gültig)エレメントを含み、それを表現してはいるのだが、このエレメントは形としてしか表象できないようなエレメントなのである。対して[形象の直観を何らかの概念の]個別事例(Einzelfall)[として扱うやり方]は、概念の特異性を見失い、直観と概念が二元論的に関わるという[望まぬ]結果を招く。〈普遍性を持つ直観〉と〈実現(Realisierung)〉の本質的一致こそが、まさに芸術作品を成り立たせているのである。さらに次のことに思いを致すがよい。芸術創造は、直観の個々の形(Formen)を法則(Gesetze)に結びつけるという意味で、自由な(willkürlich)な傾向であると同時に、必然的(notwendig)な傾向でもあるということに。」

(注記)「人を〈この形象は芸術である〉という結論に導く」ものとして、「[人間に備わった]一般化(Generalisieren)の傾向」を押す立場としては、『黒人彫刻』と同年にでたハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』(1915)が考えられ、「先行する意思」を押す立場としては、アロイス・リーグルの『後期ローマの芸術工芸』(1901)が考えられる。

 

                                                 

 

 

B. 宗教とアフリカ芸術

 

 

(段落1)   芸術作品の超越性

「黒人彫刻はとりわけ宗教によって規定されている。どの古代民族でもそうであったように、[黒人彫刻でも]造形作品は崇めるべきものである。作者は作品を神性(Gottheit)もしくは神性の擁護者として制作するのであり、製作者が初めから作品に対して距離を保つのも、それが神、もしくは神を固守する何か[神性の擁護者]だからである。製作行為は形を変えた賛美である。作品はアプリオリに独立物(etwas Selbstandiges)であり、製作者の支配に服するのではない。製作者は全ての強度(Intensität)を作品に投入し、そうするなかで劣位のものとして作品に身を捧げる。作者の行為は宗教的な礼拝(Dienst)に類している。作品は神性であるから[それ自体]自由であり、すべての束縛を免れている。作品と、崇拝者を兼ねる作者の間には、測りがたい隔たりがある。神性としての作品は人間の営為に立ち入ることはなく、仮にそういうことがあろうと、あくまでも優位にあるもの、遠きものとして立ち入るのである。宗教的なものが作品の超越性(Transzendenz des Werkes)の前提であり、それが作品の超越性を制約している。作品は神への崇敬(Adoration)、神への恐れ(Grauen)のなかで作出されるのであり、作品の与える結果(Wirkung)についても同様である。製作者と崇拝者はアプリオリな意味合いで精神的(seelisch)であり、両者は本質を同じくする。効果(Effekt)は芸術作品に内在するのではなく、作品の前提をなす疑問の余地なき神性に内在する。作家は、結果を目指して神と争っているなどと思い上がるべきではない。結果は前提され、初めから決まっているからである。芸術を〈効果を得るための努力〉になぞらえるのは馬鹿げていよう。偶像は大抵は暗闇で崇敬されたからである。」

 

(段落2 )   完結性

「芸術家が製作するのは、どこまで行っても独立的で(selbständig)超越的で(transzendent)純一で(unverwoben)あることを止めない、そんな作品である。この超越に対応できる空間直観(räumliche Anschauung)があるとすれば、それは[少なくとも]観者の機能をすべて排除した空間直観でなければならない。[なぜなら、この空間直観では]総体的で(total)、非断片的で(unfragmentalisch)、汲み尽くされた(vollständig erschöpft)空間が与えられ保証されなければならないが、空間の[この]完結性(Abgeschlossenheit)は抽象観念ではなく、直接的な感覚であるし、[しかも]完結性が保証されるのは、[後述のように]何ものも付け加える余地のない立方的なもの(das Kubische)が十分に実現する場合に限られるからである。観者の働きは問題にならない[というのはそういう意味である]。(宗教画の場合、上の話を生かそうと思うなら、完結性は像平面に限定して考えるべきである。宗教画のような絵画については装飾(das Dekorative oder Ornnamentale)を持ち出すべきではない。それは二次的な結果に過ぎない。)」

 

(段落3)   観ること

「私はこう言った。三次元的なもの(das Dreidimensionale)が遺漏なく完全に実現しなければならない、直観は宗教的にあらかじめ規定されており、宗教的カノンによって定められている、と。「観る(Schauen)」をこのように限定することによって、ある様式(Stil)が、すなわち個人の恣意に服さず、カノンによって規定され、宗教的な変革だけがそれを変更させるような、そんな様式が[黒人彫刻で]達成されたのである。観者は闇のなかで像を崇め、祈りつつ神に問い質され、神に完全に帰依するのが常だから、観者は作品の種類を気にかけたりあれこれ考えたりはしない。王や族長が描かれるときも事情は同じである。普通の人物の画像でさえ、神的なものが直観され敬われるのであり、上記の事柄が作品を規定している。こうした芸術には個人的な範型や肖像の居場所はない。それらは宗教芸術の習作としては不可欠な、しかし非本質的で蔑むべき領域をなす低俗な補助芸術として参照されるだけである。作品は崇敬された威力の類型として佇んでいる。」

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(段落6)   形而上学的なものとの決別、その残留

「このような芸術が形而上学的なもの(das Metaphysische)を具象化することは稀である。形而上学的なものは、[芸術においては]自明なものとして前提されているからである。形而上学的なものを完備な(vollständig)形において完全に示すべきであり、形而上学的なものをこの形において驚くべき強度で凝縮すべきなのである。すなわち形を極度の(äußerst)完結性へと形成すること。これが形(das Formale) の力強いリアリズムの登場である。力は抽象的なやり方で形になるのではなく、また対立のなかで反応的なやり方で形になるのでもない。そこで活動する力が[そのまま]直接的な形なのである。(現代の芸術家の場合、[絵画的なものへの批判(Kritik)がある役割を果たしていて]、その批判が形而上学的なものの痕跡を留めている。さらに[彼らのする]表現では、形而上学的なものが対象的、形式的な本質の部分に残留していて、そのために宗教の無制約的な成分、芸術の無制約的な成分、および両者の確然と分離されつつも成立する相関性(Korrelativitutuät)が、壊滅的に混濁しているのである。)模倣的リアリズムならぬ形式的リアリズムでは超越が与えられる。なぜなら模倣が排除されたからである。神に服する者が、神を模倣するだろうか?超越的な形の筋の通った(folgerichtig)リアリズムの出現である。芸術作品は、恣意的で作為的な創造ではなく、力において自然の力をしのぐ神秘的なリアリティーと見なされる。芸術作品は、その完結した形ゆえにリアルなのである。作品は独立し極めて力に満ちているので、距離感情は法外な強度をもつ芸術をもたらすだろう。」

 

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(段落9)   芸術作品に発生論はない

「芸術作品という画然たる存在を形作るには、一切の時間的機能(zeitliche Funktion)を排除しなければならない。芸術作品の周りを歩くこと、作品を触ることを禁じなければならない。神に発生論(Genetik)はない。発生論は神の真実の(gültig)存在に反している。位格を損なう(persönlich beeinträchtingende)不信心者の手跡を残す範型なしで、直ちに硬い素材に象られる、そんな表現(Darstellung)の発見が急務だったのである。こうした芸術作品が示す空間直観は、立方的な(kubisch)空間を全面的に吸収し(asorbieren)、それを統一的に表現しなければならない。ここでは遠近法やその他の正面性は禁じられている。不信心だからである。芸術作品は全面的な空間方程式(gesammte Raumgleichung)を与えなければならない。なぜなら、芸術作品が運動表象に立脚する時間的解釈を全て排除するときに限って、芸術作品は無時間的(zeitlos)だからである。我々が運動として体験するものを、作品の形に統合(積分、integrieren)することによって、芸術作品は時間を吸収してしまう。」

 

 

 

C. 絵画的なもの

 

(段落9)    危機

「フランスがかつてない危機に遭遇したのは数年前のことである。異常なまでに張り詰めた意識に耐えるなかで、人々は[従来の]やり方の如何わしさ(Fraglichkeit)とその悪影響に目覚めたのである。機械的な流れ作業を思いとどまるだけの器量を備えた画家が何人かは存在していた。彼らは通常の手段を捨て、空間直観を産出し限定するような、空間直観のエレメント(Elemente)の探求に赴いたが、彼らの尊い努力の結果は誰もが知るところである。それと時期を同じくして黒人彫刻が発見されるべくして発見された。人々は、それが何の助けも借りずに(isoliert)、純粋な彫塑形式を育んできたことを悟ったのである。」

 

(段落10)  芸術家の批判性

「普通、これらの画家の努力は抽象(Abstraktion)と呼ばれているが、話はそんなに単純ではない。間違った捉え方(die verwirrte Umschreibungen)への粘り強い批判があったからこそ、彼らは直接的な空間直観に肉薄することができたのである。とはいえ、この批判性(Kritik)こそ[我々の彫刻においては]本質的である。我々の彫刻を、すなわち黒人彫刻に照準を合わせ(richten)、黒人彫刻の精神(Bewußtsein)を我が物としてきた我々の彫刻を、その黒人彫刻から截然と分かつのはまさにこの批判性なのである。黒人彫刻において直接の所与たる自然だったものが、我々の彫刻においては抽象という姿をとる。黒人彫刻が、形式という意味では、リアリズムの最たるものであろう。」

 

(段落11)  芸術家の分析性

「現代の芸術家はただ純粋形式を希求するだけではない。彼らは純粋形式を自らの前史の否定(Opposition)として意識し、自らの努力に最大限の反作用(Reaktion)を織り込んでいく。芸術家に不可欠な批判性が、[芸術家の]分析性(das Analytische)を育てるのである。」

 

 

 

 

 

 
 
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