[翻訳] 同 (2)

 

カール・アインシュタイン(Carl Einstein;1895-1940)の『黒人彫刻(Negerplastik)』(1915)から、論文「Kubische Raumanschauung(立方的な空間直観)」を翻訳します。今回翻訳するのは段落1から段落16までです。

底本は、Carl Einstein:Negerplastik von Carl Einstein. Verlag der Weissen.Bücher/Leizig.1915.です。

 なお  "Kubisch"  という微妙な言葉については、本稿の「段落16のB」の注記をご参照ください。

 

 

 

 

   [D]   「立方的な(kubisch)空間直観」から

 

 

 (段落1)概念分析の限界 

「概念によるどんな分析もすべての芸術事象(Kunstgeschehen)をカバーすることはできない。個々の概念的な分析にはそれぞれ固有の構造(Struktur)が備わっており、ただ一つの分析方法であらゆる芸術事象に対処することはできないからである。概念的分析が直観(Anschauung)に向けられるときはなおさらである。

 

 

(段落2) 形而上学的な含意は度外視せよ

「彫刻の根柢にある直観の形而上学的な含意は完全に度外視することができる。なぜなら、形而上学的な含意は[直観の]自明な付随要因と見なせば済むからである。[これらの直観に見られる] 独立した形式(Form)は [形而上学的なものからではなく] 宗教的なもの(das Religiöse)から導くべきだということは、すでに確認できている。」

 

 

(段落3) アフリカ芸術の独自性

「そこで、[アフリカ彫刻という]芸術(Kunst)で表出(sich äussern)される直観を、形式的に解明する(formale Erklärung)という課題が成立する。我々は、黒人芸術を無意識のうちにどこかのヨーロッパ的芸術形式のコピーに貶めるといった愚は犯さない。[なぜなら]形式の観点からして、アフリカ芸術は明確に隈取られた[独自の]領域として我々の前に立ち現れているからである。」

 

 

  (段落4)   三次元的なものの「形」にはどんな「形成」が必要か

「黒人彫刻は純粋な(unvermischt)彫刻的視覚(das plastische Sehen)が[物質に]定着(Fixierung)された事例である。三次元的なもの(das Dreidimensionale)を呈示することが彫刻(Bildhauerei)の課題なのだがだが、その彫刻がナイーブな人々(das Naïve)の眼には、端的に自明なものとして(als das schlechthin Selbstverständliche) 映ったのである。なぜなら彫刻は、[三次元的なものを呈示する]ために、それ自体三次元的である量塊(Mass)を利用するからである。この[自明な筈の]課題が難問となりほとんど解決不可能にさえなるのは、何らかの仕方で空間的なもの(ein Räumliches)、いや三次元的なものもまた、「形(Form)」として鋳造しなければならないのではないかという疑念が生じたからである。[そのとき]言葉で言い表せないほどの興奮が熟考する者たちを襲ったのである。一眼で(in einem Blicke)掴むことのできないこの三次元的なものが、曖昧模糊とした視光学的(optisch)暗示ではなく、ある事実であるかのような(tatsächlich)完結した表現(geschlossene Ausdruck)として形成されなければならないのではないか[という意識]。アフリカ彫刻に比べると、ヨーロッパ人がそれに与えた解決はむしろ問題回避と言うべきであり、それは眼には馴染んでいるが、力学的に習慣として説得力を持っているに過ぎない。正面性(Frontalität)、多面性(vielfältige Ansicht)、移動モデル、彫刻的シルエットがその常套手段である。」

 

 

  (段落5) ヨーロッパ的な解決

「正面性は観者(Beschauer)を欺いて、立方的(das Kubische)でないものを立方的に見せ掛けようとしている。正面性は[まず]一つの面(Seite)に全力を集中し、その面が対象の手前の諸部分を一つの視点(Blickpunkt)から整序し、それらにある彫刻性(Plastizität)を[まず]付与する。[通常、始めに]選ばれるのは、もっとも単純で自然主義的な側面(Ansicht)、すなわちふつう一番最初に[観者に]対面し,心理的にも観者と一番最初に出会う、観者にもっとも近い側面である。他の諸側面はそれに下属し、リズムを刻みながら、三次元的なものの運動表象に呼応する感覚(Empfindung)を暗示する役割を果たす。[こうして] まずもって(vor allem) 対象[の存在]によって互いに連結(verknüpft)された運動たちから、空間的な一体性(Zusammengehörigkeit)の意識が生まれるわけだが、[しかしその連結には]脈絡が欠けている(abrupt)ので、一体性も正当な意味での形式的(formal)な一体性ではあり得ないのである。」

 (注:「面」はSeite、「側面」はAnsichtの訳。以下、段落5、段落7、段落9はカントとその亜流の「受動的綜合の美学」に対する批判として読むことができる。)

 

 

  (段落6) シルエットの場合

「シルエットでも観者に同じことが起こっている。シルエットはひょっとすると遠近法的なトリックを使って、立方的なものを予感(ahnen)させているのかもしれない。厳密に言えばそれは彫刻的要素ならぬ線描(Zeichnung)からの借用である。」

 

 

  (段落7) 形は一挙に知覚される

「以上の例に示されているのは、絵画的ないしは線描的な手続きである。そこでは奥行き(das Tiefe)は暗示(suggerieren)はされても、直接、形として形成されることはまずない。こうした手続きの根底には、ある先入観が潜んでいる。それは、立方的なものは程度の差はあれ物質的な量塊に裏づけられているだろうという先入観である。立方的なものが形として実現するために、ある手続き[正面性]は量塊を描く[作家の]内的緊張(Erregung)で足りると主張し、別の手続き[シルエット]は、一面的な形式指示(Formanweisung)で足りると主張する。しかしこうしたやり方は、彫刻的なものを暗示し説明しているのであって、「立方的なものを形として実現させる」という目的自体は達成していない。[そこでは]立方的なものが量塊として表現されてはいるが、形としては表現できていないので、くだんの目的の達成はこのやり方ではほぼ不可能なのである。量塊と形は同じものではない。[そもそも]量塊は[形のように]一挙に(in Einem) 知覚することができない。正面性という手法で連結されているのは、心理的な運動作用たち(Bewegungsakte)なのであって、この手法では形が何か発生的なもの(das Genetische)に解体され、完全に破壊されているのである。さてここが難所である。第三の次元を[複数でなく]一つの(einzig)視覚的表象作用(Vorstellungsakt)として定位し、第三次元を総体(Totalität)として見ること、それが眼目である。この表象作用を「一つの」積分(Integration)として理解することが必要なのである。さて[そうだすると]立方的なものの形とはいったい何なのか。」

 

 

   (段落8) 解釈や指示ではないある種の「形成(bilden)」の必要性

 「形は一挙に(auf einmal)捉えられるべきものである。[だがそうは言っても]私はもちろん、形が“対象を通じてなされた暗示作用として” 一挙に捉えられるべきだ言っているのではない。[むしろ]運動作用(Bewegungsakt)と称するものは無制約的なもの(Unbedingtheit)に定位されてしかるべきだし、三次元的に配置された各部分も同時的に[意識に]表示されて(dargestellt)しかるべきである。つまり散開(zerstreut)した空間は一つの視野(Brickfeld)の内部に統合[積分]されていなければならない。[そもそも]三次元的なものは解釈(deuten)の結果ではないし、量塊としての端的な所与(gegeben)でもない。”三次元的なものについての直観が産出し、普通、自然主義的な態度において(naturalistisch)運動として感覚される何か”が[まず]あって、それに形成(bilden)が働いて、”形式的に定位された表現(Ausdruck)”に転じるのがことの経緯である。そのとき三次元的なものは確固たる存在(bestimmtes Dasein)に凝縮される。」

 

 

  (段落9) 空間の特性がすでに、点の集合の一義的解釈を、不可能にしている

「ある量塊のうえの三次元的な点は、どれをとっても無限の仕方で解釈可能(unendlich deutbar)である。その結果、[点に]一義的な限定を与えることは対処不可能なほど困難に見えるし、おしなべて総体性(Totalität)も不可能に見えてしまう。[すでに(selbst)]点[と点]の関係(Beziehung)に見られる連続性(Kontinuität)[のような基本的な空間特性]でさえ、緩やかに漸進的に進む[人間意識の]機能を通じて統一的に限定された印象が[意識に]暗示されるのではないかという、甘いと言えば甘い解決の期待を打つ砕くのに十分である。リズムに富む配列や素描的な関係づけを持ち込んで見ようが、あるいはどんなに運動を多重化させて見ようが、[繰り返し言うように]、それは、立方的なものは一挙に、そして直接に形に向けて結集するのだ(sammeln)、という意見を[私に]捨てさせるには足りない。」

 

 

  (段落10) 黒人の新発見

「黒人はこの問題に純粋で妥当な(gültig)解決を与えているように思われる。彼らは、我々には差し当たりパラドックスにしか見えないとしても、ある形式的な次元(eine formale Dimension)を発見はしたのである。」

 

 

  (段落11)  観者の視点の模倣でなく

「彫刻は物質的な量塊でなく形だけを扱うものだが、立方的なものを形としてイメージ(Vorstellung)しようとすると、すぐに、何がその形を作り上げているのかが決まらないといけない、という話になる。[話の流れはこうである。]その、形を作り上げているものとは、同時には見渡せない部分たち(die nicht zugleich sehbaren Teile)のことであり、それらが、眼に見える部分と結びつきながら(mit den sichtbaren)一つの総体的な形に取りまとめられるのであり、さらに、この総体的な形は、観者においてある一つの視作用を通じて限定されていて、また三次元的な固定された直観にも対応し、その結果、他の点では合理性を欠く(irrational)立方的なものが、可視的に形成されたものとして現れるのだ、と。ヨーロッパ芸術の視覚的な自然主義は、[実は]外的自然の模倣ではない。ここで受動的に模倣されている自然は観者の視点(Standpunkt)である。これで、我々の大部分の芸術に取り付いている発生的なもの、甚だしく相対的(relativ)なものの中身がわかった。以上のことは、観者にも妥当する(正面性、遠隔像)。視覚的な最終形態の産出は、能動的に関与する観者にますます委ねられてきたのである。」

 

 

  (段落12) 形という方程式(Gleichung)

「表象(Vorstellung)が[意識と対象の]方程式(Gleichung)であるように、形もまた方程式である。[表象と違って、表象と]異なる何か(das Fremde)への結びつきを必要とせず、そして[表象と違って]いかなる制約に服すこともなく(unbedingt)受けとられる限りにおいて、この[形という]方程式は芸術的に(künstlerisch)妥当している。その理由は、直観と、その直観に構造的に重なる(sich decken)直観の具体化(Verwirklichung)の間の、完全な一致(Identität)を指して「形」と呼ぶからである。この直観とその具体化の関係は、概念[抽象]と個別[具体]の関係とは異なる。直観はいくつかの実現したものを含みはするが(umfasst)、[概念が個別に対してするように]後者に対して質的現実性において勝っているわけではない。したがって芸術は無制約的な強度(Intesität)の、[無制約的であるにも拘らず]個別的な事例であり、芸術においては[個別的であるがゆえに]質が、[しかし無制約的であるがゆえに]余すところなく(unvermindert)産出されなければならないのである。」(注:方程式とは A=B という意識のこと。この段落はヘーゲルの香りがする。)

 

 

 (段落13)    自然主義的な変数の完全な排除

「彫刻の課題はこうである。自然主義的な運動諸感覚と量塊をともに排除しきった方程式を立てること、そして運動諸感覚の継起的な差異を形式的秩序(eine formale Ordnung)に変換した(unsetzen)方程式を立てること、それが彫刻の課題である。この[運動諸感覚および量塊と、形式的秩序の間の]等価変換(Äquivalent)は完全でなければならない。[つまり運動諸感覚と量塊という変数を残してはならない。]というのは、芸術作品は人間のこれらの諸傾向の方程式ではなく、むしろ無制約的で閉じた独立体(ein  Selbständiges) にならなければならないからである。」

(注:アインシュタインは運動感覚と量塊という自然主義的な変数の完全排除を謳っている。)

 

 

  (段落14)    奥行きの方向と手前に向かう傾向

「通常の空間は三つの次元を持つとされる。しかし第三の次元すなわち運動(Bewegung)の次元は、次元としてはカウントされてきたが運動のあり方までは吟味されてこなかった。芸術はある性状を端的に持つもの(das schlechthin Geratete)の形成だから、この最後の次元すなわち運動の次元についても、[芸術でのそれについて言えることと、芸術以外の分野でそれについて言えることの]区別を設けなければならない。運動ということで我々が思い浮かべるのはある一つの連続体、すなわち移動しながら空間を包む連続体のことである。造形芸術は固定(fixieren)を事とするので、[移動しながら空間を包む連続体という]この統一的な了解にさらに下位区分が加わる。運動がある方向と逆の方向に沿って把握され、運動が二つのまったく異なる方向を含むようになるのである。(数学者の無限空間においてはこんなことは起こらない。)彫刻において[これら二つのまったく異なる方向]は、奥行きの方向(Tiefenrichtung)と手前に向かう傾向(Tendenz nach vorne)ということになるが、それらはきわめて特権的な空間産出の方式であり、両者には線としての違いは認められないが、形式の差異という点では第一級の重要性を有している(印象派では、またぞろ自然主義的な運動表象の影響を受けて、この区別がアヤフヤになっているようだ)。この認識から次のことが導かれる。彫刻はある意味で不連続的(diskontinuierlich)であり、さらに空間を完全に創出するためには対比(die Kontraste)が根本的な手段として不可欠であるということ。暗示を事とする二次的な範型(Modele)を、粉飾して立方的なもの(das Kubische)に見せかけてはならないし、そのやり方でさらに物質的な関連をそう見せかけてもならない。立方的なものは独自のものとして立たねばならない。」

 

 

  (段落15)

「彫刻の観者は、彫刻の与える印象は〈見ること(Sehen)〉と〈奥行きの意識〉とで合成されていると考えがちである。[しかし]このような効果(Wirkung)は如何わしいものであり、芸術においてはなに一つ生み出したことがない。」

 

 

(段落16A)   キュビスムの基本原則 

「彫刻は自然主義的な意味での量塊の問題でなく、ひとえに形式的明瞭化(formale Klärung)の問題だ、というのが私の主張してきたところである。そこで問題はこうである。見えてない(nicht sichtbar)部分を立方的なものつまり形として描き出すに当たっては、[形として]見えてない諸部分を、それが果たしている機能(Funktion)の観点から、つまり(この表現が許されるならの話だが)形として眼に見えている部分との奥行き比(Tiefenquontiente)の観点から、描きだすことが(darstellen)大切なのである。当然、それは対象性や量塊から自由な形として描き出すことを見込んでのことであり、上のようにすれば、諸部分が物質的もしくは絵画的に描かれることにならないですむ。それどころか、[従来は]形は諸部分を彫刻的たらしめはしても、その形[自体]が自然主義的に運動として与えられざるをえないということがあったが、[いまや]形は一つのものとして定位され、[その一つのなかで]同時的に可視的(simultan sichtbar)になるのである。そのためには[眼に見えない]各部分に次のような変形(deformieren)が必要である。すなわち、正面とは齟齬する(entgegengesetzt)側から見られたときのその[眼に見えない]部分のイメージが、正面に立つある部分に、しかも三次元的にあらかじめ機能化されたある部分に繰り込まれる(herausarbeiten)ことそしてそのことによって[眼に見えない]各部分に奥行きが浸透(absorbieren)すること、このような変形が必要なのであり、そのとき各部分は彫刻的に独立を成し遂げている。どの部分も、ある形式的表象(formale Vorstellung)の成果(Ergebnis)なのである。すなわち、空間を総体[まとまり]として産出するような、個別視覚的なものと直観の完全な同一性を産出するような、そしてそのことによって空間を量塊に貶める一切の代用的な抜け道を廃棄させるような、そんな形式的表象の成果なのである。ここに成立するのが一つの面(Seite)に圧倒的に(stark)集約された(zentriert)彫刻である。正面性が前方の表面を足し算する(summieren)だけなのに対して、この彫刻は、立方的なもの(das Kubische)という総体を、[ベクトルの]合力(Resultante)としてあるがままに(unverstellt)呈示する。彫塑的なものに内在するこの統合(Integration)が機能中枢系(Funktionszentren)を産出し、それが前方表面(Vorderfläche)たちを整序し[三次元的に機能化し]、[さらに]この立方的な中枢(Points centrales) から、直ちに諸部分の確固たる独立化とも言うべき必要不可欠で強力な[奥行きの]配分(Austeilung)が行われる、という流れである。」

 

(注記)

段落16は長大なので三つに分割する。注意すべき事項を簡単に指摘する。

 

その1。冒頭の「明瞭化」云々の議論はコンラート・フィードラーを想起させる。

 

その2。「総体性(Totalität)」は日本語に訳しにくいドイツ語だが、何かがあるまとまりを持っていることを言う。少なくともカントでは、茫漠としたり、曖昧模糊としたりではなく、いわば枠で囲われ、「それ」と指さすことができるというほどの意味である。ヘーゲルその他ではどうか知らないが、少なくともカントではそうなので、その大仰な字面に誘われて観念論的な妄想に走らない方が良い。

  

その3。下線を付した次のくだりは、『黒人彫刻』の白眉である。「[眼に見えない]各部分に次のような変形(deformieren)が必要である。すなわち、正面とは齟齬する(entgegengesetzt)側から見られたときのその[眼に見えない]部分のイメージが、正面に立つある部分に、しかも三次元的にあらかじめ機能化されたある部分に繰り込まれる(herausarbeiten)こと、そしてそのことによって[眼に見えない]各部分に奥行きが浸透(absorbieren)すること、このような変形が必要なのであり、そのとき各部分は彫刻的に独立を成し遂げている。」これが Kubismus の基本原則である。

 

その4。「機能中枢系(Funktionszentren)」の解釈には窮するが、おそらく大脳生理学の言葉であり、検索すると今もその分野の使用例が見つかる。Pointe centrales はもちろん「中心点」という一般的意味が考えられるが、やはり大脳生理学関連と見て、中枢と訳しておく。キュビスムと大脳生理学の歴史的関係は研究されているのだろうか。

 

 

(段落16B)  面の地質構造学

「これはもっともな話である。実際、自然主義的な量塊はなんの役割も果たしていないからである。古代の芸術作品が使用した堅牢で壊れのない周知の量塊も、この場合関係がない。さらに古代の芸術作品においては、形態もその直接的な空間存在(Raumsein)として理解されているのであって、効果(Effekt)として理解されているのではない。神は支配者であり、その身体は工人の制圧的な手を免れており、むしろ身体は[形としてそれが果たす]機能に即しておのずから理解されるものである。黒人の彫刻像についていわゆる比例の誤りを言い立てる人がいるが、私としてはこう考える。[黒人彫刻の場合] その形式了解(Formerklärung)の脈絡での話だが、空間の視覚的な不連続性(Diskontinuität)は、ある序列感覚(Ordnung)に読み替えられている。彫刻性が問題になる状況では、彫塑的な表現の序列に、各部分の価値評価の序列が対応するのである。[では彫像の大きさ(Grösse)はどうだろうか。]大きさは決定的要因ではなく、むしろ大きさが、諸部分に施された立方的な表現を忠実に(rücksichtlos)表現していることが大事なのである。[以上のような仕方で当然]、黒人は、ヨーロッパ人なら妥協して手を出してしまうあるものを拒絶している。すなわち原基(Elementare)に書き加えられた範型(Modele)を、黒人は拒絶する。なぜならそのような範型を拒否しなければ、「断固たる分割(entschiedene Aufteilung)」という純粋に彫塑的な手続きに進むことができないからである。形は、形となるために、集中的(konzentriert)かつ強度において(intensive)召喚(auslösen)されなければならないが[これが「断固たる分割」]、そのときそれをいわば下支えする(untergeordnete)機能を果たすのが面たち(Seiten)である。[なぜそれが面たちの仕事かと言うと]、立方的なものは合力(Resultante)または表現として(量塊と独立に)描き出されるのだから、[合力の要素となる]面たちがどうしても必要なのである。面以外の選択肢は考えられない。なぜなら質としての芸術は強度(Intensität)の問題であるが、その強度は、側面(Ansichten)[相互]の下属関係を通じて、すなわち構造地質学的な(tektonisierte)強度として、立方的なものを表現するからである。」

 

(注記)

延々とKubischを「立方的なもの」と訳しておいて、今さらこんなことを言うのも変だが、本来、”Kubisch”とはどういう意味なのだろうか。

 

そもそも、日本にはフランス語およびドイツ語のcubisme/Kubismusを「立体派」と訳してきた誤訳の歴史があり、それとの連想で日本人はおおむね、cube/Kubusという言葉にも無意識に「立体」という意味を当てて怪しまない。しかし最近あちこちで指摘されるように、この名詞cube/Kubusの意味は「立体」ではなく「立方体」であり、そのことはそれが日常的には「立方体、サイコロ」を、数学の領域では「立方、3乗」を意味することからもわかる。(ちなみに二次元ではドイツ語Quadratが数学的な 「平方、2乗」を意味する。Quadratmeterが「平方メートル」、Kubusmeterは「立方メートル」である。) 

 

「立体」と「立方体」は違う。だが立方体も立体なのだから、その違いに目くじらを立てることもなかろうに、という鷹揚な反論が聞こえてきそうである。しかしそうではない。KubistたちがKubusという言葉を掲げた積極的な理由はおそらくこうである。立体では3辺の長さの比 (a:b:c) が、すなわちabcの間の差異が  その形状を決める要素として最大の関心を集めるだろう。しかし立方体では事情が異なる。確かに立方体も (1:1:1あるいはa:a:a) という比を持つけれども、この場合、数と数と数の差異は(ほとんど)問題にならず、人々の関心は、数の間の二つの[:]に、つまり比そのものに向かうに違いない。比は一方では「形状」を決めるが他方では(それに先立って)「次元」を決めているKubusという言葉の本領はそれが対象の形状ではなく対象の「次元性」に向かった点にある

 

このことは、段落16ABが、前面をなす平面(第1次元と第2次元)、それに回収されない [筈の]第3次元の弁証法的な関係に集中していることに、如実に現れている。

 

対象の物体性ではなく次元性にアインシュタインの関心が向いていることは、「表現」という言葉にも現れている。この「段落16B」の最後に出てくる「表現する」という言葉の元は、 ausdrücken ではなく、(sich)darstellenである。一般に前者は、ある対象がまずあってそれを言葉(概念)または形象で「再現・模倣する」ことを意味し、後者は「そこに(da)置く(stellen)」という原義を踏まえて、「(手持ちの材料を使って)何かを呈示する」ことを意味する。「呈示」は一つの「投企」である。物体は模倣され次元は投企されるのである

 

 

 

(段落16C)  立方的な合力

「ここでモニュメンタルなもの(das Monumentale)という考え方に言及しておく必要がある。このような物の捉え方は、一切の直観を欠いた杓子定規に作業するだけの時代のものである。芸術は強度において(mit Intensive)作業するものであり、芸術には大きさを事とするモニュメント性の占める地位はない。[先ほどの、芸術における強度は構造地質学的強度として立方的なものを表現するという(B末尾での)私の発言に関連して、]もうひとつ注意しておくべきことがある。この彫刻的[で構造地質学的]な[面の]整列行為(Ordnungen)を、[面、次の面、さらにその次の面という具合に面たちを]線的な順序で書き並べる行為(lineare Interpolierungen)になぞらえるべきではない。後者は何ももたらさないか、あるいはせいぜい概念的な記憶に汚染された視覚をもたらすだけである。芸術作品の象られた空間が直接的に定着される仕方を理解できる人だけが、しかも直観しつつ見る(anschauend Sehen)という仕方でそれを理解できる人だけが、黒人の紛うことなきリアリズムを理解する。奥行き機能は量塊によって表現されるのではなく、量塊の運動表象では統一的に直観するべくもない、溶接された(verschweißten)空間対比の方向的合力によって表現される。対象に歩調を合わせて加算された空間対比はその任に耐えないだろう。なぜなら、立方的なもの(das Kubische)は、互いに異なる配置をもつ個々の部分たちのなかではなく、一挙に把握された立方的な合力のなかにあるからである。この合力が、量塊や幾何学的な線で何かを生み出すことはない。立方的な存在が非発生的で(ungenetisch)無制約的(unbedingt)な所産として浮上するのは、この[立方的な]合力があればこそである。そしてそれもこれも[この合力が]運動を脱力させる(absorbieren)からである。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
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