日本評論社版『連続体』の誤訳について

 

Weylの『連続体』は日本評論社版で正しく翻訳されているだろうか。以下に不適切な翻訳箇所を一部指摘しておく。


(3頁4行目)「本物の判断」→「真正な(echt)判断」。

 

(3頁19行目)「性質記述」→「性質語(Eigenschaftswort)」。

 

(5頁14行目)「直裁的」→「直接的(unmittelbar)」。数学論文ならまだしも、歴史的関係

が重きをなし、思想家間の意見交換によって成り立つ哲学系の学問では、混乱回避の観点から新語の導入は極力慎むべきである。

 

(6頁12行目)。訳者は「命題(Satz)」と「判断(Urteil)」の区別をしばしば曖昧にする。たとえば、「すなわちそれら[の命題]は特定の(存在-)事象を主張するものになっていて、従って、それらが成立するかどうかが問題にできることに成る」など。原文はこう。”so sollen solche Sätze — bestimmte (Existeitial-)Sachverhalte behaupten — ,von denen nun eben  die Frage ist,ob sie bestehen oder nicht. ”

そもそも、『連続体』の第一節冒頭で定義されるように、Weylにおいて命題は問いを発するもの、判断は事態を主張するものである。だからワイルが、上記訳文のように、「それら[の命題]は特定の(存在-)事象を主張する」などと、つまり「命題は主張する」などと言う筈がないのである。ではどうしてWeylは、二つの ハイフン「— 」で挟まれた本来あり得ない文章をここに書き込んだのか?

この箇所でWeylは文章に「時間差」を持ち込んでいる。すなわち、「これらの命題は[やがては判断に昇格して]、一定の[存在]事態を主張することにはなるのだが、今のところは(nun)、ぎりぎり(eben)、これらの事態が現存するかどうかという問いが立てられた[でも問いの答えは<まだ>出ていない]という状態だとしてみよう(sollen)」と。そういう具合にWeylは文章に「時間差(やがて、今は、まだ)」を持ち込んだのであり、その中で理論的にはあり得ない文章が偶発的に出現したのである。翻訳は当然それに対応しなければならない。

 

(8頁2行目)「伴っている」→「必要である(gehören zu)」

 

(12頁11行目)「なんとなれば」→「そうでなければ(sonst)」。

 

(12頁28行目)「全く」→「いやしくも(überhaupt)」。K・Gödelの有名な論文(1931)の冒頭にもこの言葉(überhaupt)が出ている。それを引用しよう。Es liegt daher die Vermutung, daß diese Axiome und Schlußregeln dazu ausreichen, alle mathematischen Fragen,die sich in den betreffenden Systemen überhaupt formal ausdrücken lassen, auch zu  entscheiden.(そこで、どんな問いであれ<いやしくも>当該の体系で形式的に表現されている限り、その問いはこれら一連の公理と推論規則でかならず[真偽の]決定もできるだろう、という推測がなされる)。überhauptは英語では on earthあるいは everか。

 

(13頁19行目)「常に」→「一向にお構いなく(immer)」。前提が以前と同じなのに、以前と真反対の(diametral)結論が出るとき、immerが使われる。以前〜〜だったのに、それにはお構いなく。

 

(14頁1行目)「すべきである」→「してよい(dürfen)」。これはドイツ語文法の基本でしょう? 「ドイツ語の助動詞」をおさらいした方が良い。

 

(16頁2行目)「論理法則の集まり」→「論理法則の特性(Beschaffenheit)」。

 

(16頁10行目)ヒルベルトのプログラムの形成期(つまり1921以前)に、そしてゲーデルの否定的結果(1931)より前(1918)に書かれたこの文章は、ぜひ正確に訳して欲しいものだ。「しかし、たとえば、点、直線、平面についての全てのそれらの問題領域に属す真な全般的判断が、幾何学的諸公理から論理的推論によって演繹されるというのは、科学的な信念であることは強調しておかなければならない:我々は、そうであることを理解する手立てを持っていないし、更にこれを全く論理法則から論理的方法によって“証明”する手立てを持たないことについてはなおさらである」。 何が言いたいのだろう? 特に後半がよくない。

  →   「しかし次のことには注意を喚起しておきたい。たとえば、点、線、面についての、すべての配属完了的で一般的で真なる判断が、幾何学的諸公理から論理的推論によって導かれるという確信(Überzeugung)は、[あくまでも]一個の学問的な思い(Glaube)なのであって、「こうした判断が幾何学的諸公理から論理的推論によって導かれる」ことを実際に[理性で]洞見(einsehen)できる訳ではないし、まして、そのことを論理的諸法則そのものから論理的なやり方で「証明(beweisen)」できる訳でもない」。

 

Weylがこの文末でゲーデルへの道を準備していることをちゃんと押さえよう。ゲーデルがWeylの『連続体』を知らなかったはずがない。そして冷静に見れば、ゲーデルの仕事は突然変異的ではないし(彼は基本的にWeylを踏襲する)、内容的にもWeyl流に「常識的」である。非常識なのはHilbertの構想の方でしょうが、どう見たって。

どこかに「人智の限界を明らかにした」みたいにゲーデルを持ち上げて、印税を稼ごうとした人たちがいる。どこかにゲーデルを使って、アインシュタインの相対性理論騒ぎの「二匹目のドジョウ」を画策した者たちがいる。(テーブルにゲンコツをついた写真が出回っているが、ゲーデルはあんなキレッキレタイプの人物ではない。ユダヤ人風味の演出も見えるし、岡潔はそれで騙されたのだろう。)

 もう一度言う、そもそもHilbertの構想が「人智の限界」を蔑ろにしているのだ。ゲーデルはその事実を小声で指摘したに過ぎない。「不完全性定理」騒動は、Hilbertの暴走を等閑に付し、ゲーデルのみをこと挙げするトリックで成立している。

 

・・・あれれ。いまゲーデルの肖像をGoogle検索したところ、例の写真が出てこない。その写真の下の三分の一(ゲンコツより下の部分)を大幅にカットしたものしか出てこない。戦闘的で凄みのある印象、つまり数学の「武装せる預言者」みたいな印象が大幅に緩和され、修正後は平凡なポートレイトになり下がっている。いったい誰の仕業だろうか?  でもGoogleの写真検索に干渉できる人って、誰? そもそも何のための写真の修正か?

 昨今、「不完全性定理」という勇ましい呼称を見直す動向もあるやに聞くが、誰かの意向でゲーデルの「脱神格化」がゆっくりと進行しているようだ。

 

(17頁行目)「今日では」で新しい段落に移るのに、それを無視している。

 

(20頁10行目)「与える」→「挙示する(angeben)」。形容詞angebbarは「挙示可能」。この言葉もGödel(1931)に出現する。

 

(20頁12行目)。この訳者には倒置文を正置文に訳す癖がある。例えば、”Jeder ursprünglichen oder abgeleiteten Eigenschaft E entspricht eine Menge(E)。訳書は「本来の性質、または複合的な性質Eはそれぞれ一つの集合(E)に対応する」となっているが、これは明らかにおかしい。jeder・・・Eigenschaftはdativだから、eine Menge(集合)が主語である。つまり「本来の性質、または複合的な性質Eには、それぞれ一つの集合(E)が対応する」が正しい。

しかしどっちみちテーマは「対応」なのだから、AがBに対応しようが、BがAに対応しようが、一緒だろうと? そうはいかない。なぜならワイルはまさに、概念が先行しそれとの関係で集合が決まるのか、それとも集合が先行しそれとの関係で概念が決まるのか、という哲学的問題に取り組んでいるからである。彼は後者の立場に立つ。(44頁6行目、53頁2行目にも正置・倒置のミスがある。)

 

そもそもドイツ語は倒置を好む言語なので注意を要する。倒置文は目立たない場所に地雷のように潜んでいる。顕著な例はカントの『判断力批判』の第45節の表題である。“Schöne Kunst ist eine Kunst, sofern sie zugleich Natur zu sein scheint. ”   主語はeine Kunstである。「技術(eine Kunst)は、同時に自然と見える限りで、美しい技術[芸術] である」。ところがどうしたことか、2023年現在、この箇所を正置文に訳した『判断力批判』の日本語訳が、白昼堂々、売られている。

 

(20頁23行目)Gesetzは「規則(Regel)」ではなく「法則」である。「法則」は立法能力に、「規則」は包摂能力に関係する。

 

(22頁7行目)「そのままで」→「それ自体(an sich)」。

 

(22頁8行目)「対応させられて」→「重ね合わされて(Deckung)」。

 

(23頁20行目)「指定」→「挙示(Angabe)」。

 

(24頁3行目)「横に存在を示している」→「同調する(zur Seite treten)」。これはひどい。辞書を引こう。

 

(24頁10行目)Weylの主張を正反対の意味にとっている。「それゆえ近代的な批判研究により作り上げられたものの大部分が、解析学の新たな究極の基礎づけに際して、建材として適当でないことは疑う余地がない」→「現代の批判的研究の成果の大部分が、解析学の最終的基礎づけのための部材として、新たに再利用(verwerten)できることを疑わない(so wenig daran zu zweifeln,daß・・)。」意味が逆転している。英語のlittle とa littleのように、wenigは否定に、ein wenig は肯定に訳す。

 

(25頁7行目) Soviel in allgemein vorweg. 短い文章は危ない。vorwegは「先行する」、 in allgemein は「一般的に」、sovielは何かを終わりにするときの言葉、つまり「これくらいで」の意味にとる。

「次の一般的な事柄をあらかじめ言っておく」→「導入としての一般論はこれで終わりとする」。一般論はたったいま終わったのであり、これから始まるのではない。

 

(25頁10行目)「一般的な集合論の成立の可能性にも関わらず」→「一般的な集合論の可能性はさておき(unbeschadet)」。unbeschadet は肯定でも否定でもなく、単なる「判断の保留(さておき)」である。

 

(25頁18行目)「概念」→「直観(Anschauung)」。

 

(29頁12行目)「 絶対的(absolut)」の説明が完全に脱訳している。

 

(30頁19行目)「一つ集合」→「一つの集合」。

 

(31頁6行目)。これは完全にアウト。ラッセルのパラドックスの内容が間違っている。もちろんワイル自身は正しく書いている。

 

(33頁14行目)「<存在する>という呪文」→「<存在する>という小辞(Wortlein)」。いくらなんでも「呪文」はない。

 

(36頁20行目)「コーシーの収束原理も第二の把握に対して成り立つ」→「コーシーの収束原理も二つ目の解釈を支持する(gelten für)」。gelten fürは「賛成票を投じる」。

 

(39頁11行目)「数」→「自然数」。

 

(39頁12行目)「行程」→「出来事(Vorgang)」。なお関係代名詞derの先行詞は、図式(Schema)ではなくVorgangである。

 

(40頁12行目)「この反復原理は、これまでの原理の中で格段に複雑だが、これは特に数学的な性格を持つものである」→「反復原理の中には格段に複雑な反復原理があって、狭い意味での数学的反復原理がそれである」。

どこがいけないか、わかる?  冒頭の「この」がいけない。ここで段落が変わり、話題は反復原理「一般」に復帰している。だから前段落を引きずって「この反復原理」と受けてはならない。

 

(42頁4行目)「移行してきているので」→「移行しなければならないので(haben hinüberzuführen)」。haben +zu不定詞。

 

(44頁22行目)「絶対的なもの」→「絶対的な演算領域」。

 

(45頁20行目) ideale Kategorienを「仮想的カテゴリー」と訳しているが、これは本訳書中で最悪の誤訳である。どうしてidealが「仮想」なのか? 「観念的カテゴリー」と訳すべきだろう。

私は「仮想」という言葉にはウルサイ。日本にはvirtual realityを<仮想現実>と訳した恥ずかしい誤訳の過去があるが、これはその余波だろうか。「仮想」は二重にダメな言葉で、「そうなっております、本当は違うんですけどね、お分かりでしょ、へへへ」みたいな欺瞞的かつ共犯誘導的なところが一つ、他の一つは(こっちはもっと深刻だが)そのシニカルで斜に構えた感じにも拘らず、心のどこかで「本当の現実」の存在を単純に信じている能天気な素朴性が一つ。(一見奇矯な存在論の裏に、ペランペランの平板な実在観念が隠れているというあれ。)  

virtual,ideal,imaginary,illusionaryというすぐれて「肯定的」な言葉に、「仮」、「虚」、「妄」、「幻」といった負の訳語を当てるのを止めよう。「実在の充溢」を「実在の欠損」として貶めるのを止めよう。ヨーロッパ式存在論に日本式存在論を密輸出するのを止めよう。(まあ、ハイデガーの『存在と時間』末尾の「研究は軌道に乗った」を意味するunterwegs (on the way)を、「我々の研究は道半ばだ」と否定的に訳した国民病は当分治らないとは思うがね。人に物を贈るとき、「詰まらないものですが」と言うアレ)。

virtualに関する蘊蓄を少し。語源的にはラテン語virは「男」を意味する。男は「力」が強く(英熟語by virtue of=〜のお陰で)、さらに力は戦場における勇気という「徳(Virtue)」の源泉でもある。virtual realityのvirtual は、「男」=「力」=「徳」という筋肉系?意味系列の、特に「力」を踏まえた言葉である。だからvirtual realityは「実体はともかく、その実効性において現実と区別できない何か」を意味する。つまり「事実上の現実」。

例えばvirtual promiseは書類は交わしてないが有効な約束を意味する。virtual defeatは「事実上の敗北」、virtual closureは「事実上の閉鎖」を意味する。これを「戦争における仮想敗北」とか「銀行の仮想閉鎖」と訳すのかい? 穢らわしいにも程がある。

 

80年代後半と記憶するが、朝日新聞に、virtual realityの「仮想現実」という訳語は日本に仇をなすだろうというコラムが出たことがある(本当です)。不幸にして予言は当たったようだ。virtual realityを最初に仮想現実と訳した人、一歩前に出なさい。(しかし実は誤訳の温床は大正期にある。J・ベルヌーイの「有るとしか思えない速度」を意味する「vitesse virtuels」を、「本当は無いんだけど、有ると見立てた速度」の体で「仮想速度」と誤訳したのは、一連の解析力学の教科書だった(著者名を出そうか?)。この言葉は、速度や力という力学内部の話題に冠する限り無害なようだが、科学者が柄にもなくrealityという大きな言葉に「仮想」を使うと哲学的大風呂敷となり、ボロが出る。)

 

(46頁6行目)「見据えるものとなっている」→「踏み込みそうになっていたのだった(hinübergreifen)」。

 

(46頁27行目)「有限個の代数的整数は」→「有限個の代数的整数の系(System)は」。

 

(48頁14行目)「kat’ exochen(それ自身)」→「kat’ exochen(優れて・卓越した意味において)」。フランス語のpar excellence。

 

(48頁26行目)「数学の近代の発展は、古い解析学が拠り所としていた特殊な代数的構成原理が、論理的に自然で一般的な解析学の構築に対しても・・・あまりにも限定されすぎている、という認識に到達した」→「・・・旧式の解析学は、代数学に特化した構成原理を出発点としたが、それだけでは解析学を論理的かつ自然的にすなわち普遍的に(logisch-natürlichen und allgemeinen )構築するには狭すぎるし・・・」。

<論理的に自然で一般的>はいけない。なぜなら、”logisch-natürlich”=”allgemein” なのだから。

 

(49頁22行目)「この循環から抜け出す道を発見し」→「この循環から抜け出す道を自力で(für mich)発見し」。

 

(49頁26行目)「概念の広がり」→「概念の外延(Umfang)」。

 

(49頁28行目)「明確に(ausdrücklich)」の脱訳。

 

(50 頁行目) ポアンカレ論文の邦訳の所在を明示せよ。『科学と方法』、吉田洋一訳、150頁、岩波文庫。

 

(51頁9行目)「答えのない問題」→「似非問題(Scheinproblem)」。普通はこう訳す。

 

(53頁3行目)「空間認識」→「空間直観(Raumanschauung)」。

 

(53頁7行目)「いずれにしても」→「そもそも(vor allem)」。

 

(53頁14行目)「近年、数学を形式論理学から分離することが益々難しくなっている」→「近年、数学を形式論理学から分離することに困難を感じる頻度が一段と増している(öfter)。」度合いでなく頻度の問題。

 

(70頁10行目)「この実数を *λと表すことにしてこれも有理数と呼ぶ」→「この実数を *λと表すが、λ自体は有理数とおいたのだから」。いくら何でも実数を有理数と呼ぶ人はいない。

 

(71頁23行目)「ここで見ているのは、我々の論理的構成原理たちが、その本質的な応用によって、関数概念の昔の分析が示唆していたような代数的構成原理たち導くことを示す最も簡単な例である」。ちょっと、何を言っているのかわからない →「これは、過去の解析学(alterer Analysis)が、関数概念に際して代数的構成原理の姿で思い浮かべていた(vorschweben)ものが、我々の[はるかに射程の広い]論理的構成原理では、その個別適用例として(in besonderer Anwendung)導かれる、ということのもっともわかりやすい実例である」。Weylは過去の解析学の関数概念が「代数的」に過ぎないのに対して、現代解析学の関数概念を「論理的」とし、それの射程は過去の代数的関数概念を個別(besondere)事例として包摂するほど広いと言っている。

 

(71頁25行目)「脚注」→「訳注」

 

(73頁7行目)「関数」→「関係」

 

( 75頁5行目)「自然数の複素数は8次元の集合である」→「複素数は自然数の8次元の集合である」。どこからこういう間違いが ???

 

( 77頁14行目)「単位区間」→「単一区間(Einheitsintervall)」。訳者はここから先、30数ヶ所にわたってEinheitsintervallを「単位区間」と訳すが、正しくないと思う。このEinheitは「(長さ)1」ではなく、「切れ目がない」を意味するので(近傍Umgebungがパカっと割れていると困るでしょう?)、「単一」が正しい。現に101頁では「一辺の長さ2の正方形」をEinheitsquadrat と呼んでいる。

 

(80頁17行目)「以下のパラグラフで詳しく述べる」→「次の(nächsten) [第6] 節で詳しく述べる」。Paragraphenは単数である。

 

(84頁21行目)「関数g(y)である」→「関数g(y)の値(Wert)である」。

 

(85頁7行目)「直観的な、あるいは数学的な連続体」→「直観的連続体と(und)数学的連続体」。

Weylは「二つ」の連続体に折り合いをつけようと悪戦苦闘しているのだから、「あるいは」はおかしい。

 

(86頁3行目)「遊び」 → 「可動域(Spielraum)」。

 

(87頁9行目)「現象学的」→「現象的(phänomenal)」。

 

(87頁12行目)「物理的」→「生理的(physisch)」。たしかにこのドイツ語physischの訳語としては、「物理的」と「生理的」の両方が可能だが、直前に”seelisch-leiblich”とあるから、 leiblichの意を汲んで、physischには「生理的」を当てるのが妥当である。

 

(89頁行目) 時間(Zeit)をめぐるこの文章は対話的に構成されているが、Weyl自身が複数の話者をちゃんと区別していないために、訳文もそれに巻き込まれて大混乱をきたしている。時間について誰が何を主張し、Weylがそのうちのどれを受け入れどれを拒絶しているのか、まったく読み取れない。たとえば口調を変えるなどして話者を識別する手もあったろうに。(訳者は現象的な(体験的な)時間について一度も考察したことがないように見える。)

 

(90頁、注159)「理念」→「イデーン」。Weylがここで触れるのは、フッサールの1913年の著作、Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie だが、彼にはDie Idee der Phänomenologie(1907)という重要講義があるので、普通、前者を『イデーン』、後者を『理念』と呼んで区別する。

 

(92頁 最初の段落)この段落は非常に不出来であって、部分点すら与えられない。

その一、「最終的に分割可能な要素」→「分割不可能な究極的要素(letztes unteilbares Element)」。デモクリトスやルクレチウスの原子のこと。

その二、「与えられたものによって初めて有効となる理性が」→「件の所与を通じて[何ものかを]洞見する理性だけが(die durch dies Gegebene hindurchgreifende Vernunft)」。フィヒテの香りがする。Weylは、20世紀におけるフィヒテ再興の立役者だったスイス系ドイツ人の哲学史家Fritz Medicus(1876-1956)の親友だった。

その三、「例のアイデアを把握する」→「この理念を把握する(jene Ideen zu erfassen)」。Ideenはアイデアではない。Weylは時点と空間点が概念でなく「理念」だと言っている。

その四、「純粋に形式的な圏域に属す実数の算術的・解析的な概念が・・・」という訳文は、Weylの真意をちゃんと伝えていない。そこに出現する八つの単語のうち一つだけが重要であって、「形式的(formal)」がそれに当たる。<算術的・解析的概念>は前節の内容の再確認に過ぎず、「形式的」が新情報なのである。 

そもそもこの段落でWeylが「古代的に」語っていることに気づくべきである。直前のIdeenがプラトンのイデアを想起させるように、このformalはアリストテレスのエイドス(形相、forma)を想起させるからである。

 

(93頁12行目)「記述によて」→「記述によって」。

 

(94頁16行目)「まだついている泥も、この霧が晴れれば」。二つの言葉、Erdenrest(大地の残した屑)とNebel(nd)(霧に包まれ)は、ゲーテの『ファウスト』第二部に登場する言葉である。G.マーラーは交響曲の八番(1910)でこれを歌詞に使用した。

 

(94頁18行目) 「訳に立たない」→「役に立たない」

 

(97頁23行目)「高々一つの比」→「まさにただ一つの比として(gewiß nur in einem Verhältnis)」。「高々」では0個の場合が含まれてしまう。

 

(98頁20行目〜25行目)「平面を孤立した点たちに分離することにより、線は、かかる点たちの確定的な性質を持つ集合として捉えることができる——あるいは更に正確には、解析幾何の翻訳原理に基づき、平面の点を実数の組みで表現し、神(理性)の全能を固く信じて:純粋な数の理論で現れる実数の二重集合で、ある実数の間の2項関係(「陰伏等式」)に対応するもの、として捉えることができる。」???

 

原文はドイツ語講読の授業に使いたいような面白い文章だが、訳文の後半は日本語として崩壊している。二つの条件文が対をなしていて、最初のindem(~とおけば)と後半の二つのwenn(~とおけば)が対応し、初めの方のals(として)とコロン直後のals(として)が対応している。だから、コロンとalsの間にはwird eine Linieが、Doppelmenge reeller Zahlen の後ろには zu fassen seinが隠れている。これが見えないと訳せない。

  「[さて飽くまでも当座の思考実験としてだが] 平面を孤立した点たちに分解するなら、線(Linie)の方は、こうした点たちの或る性格を持った集合(als eine bestimmt geartete Menge)と理解されるだろう。いや [この「平面を孤立した点たちへと分解する」というくだりを] もっと正確に、「解析幾何学の一連の翻訳原理(Übertragungsprinzip)に従って、平面の点たちを実数のペア(Paar)[座標]たちとして表現すると」と読み換えると──そして我々が、[この翻訳つまり]ロゴスの全能性(die Allmacht des Logos)への信頼を堅持してさえおれば[つまりあらゆる領域にわたって言葉(ロゴス)が互換性を持つと信じるなら] ── 線(Linie)は、実数の或る二項関係(陰伏的な方程式)に対応する実数の二重集合として(als)、ただし純粋数論の姿をとったそれとして理解されるのだろう」。  

 
 
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