第6章(第7節)  視覚的図形(visible figure)と[視覚的]延長(extension)

 

[第7節段落1]      盲人は視覚的図形を認識する

「色(colour)と呼ばれる物体の質(quality)と、眼に対するその色の現象(appearance to the eye)の間には、類似性(resemblance)はなく、我々が知るかぎり必然的な関係もない。[しかし]物体の図形(figure)および大きさ(magnitude)についてはその限りではなく、物体の視覚的な(visible)図形および視覚的な大きさと、物体の現実的な(real)図形および現実的な大きさの間には確実に類似性があるし、必然的な関係さえ存在する。 誰も、赤色がいまこれこれの仕方で眼に作用(affect)している理由(reason)を述べることはできないし、誰も、赤色が自分の眼に作用する(affect)仕方と他人の眼に作用する仕方が同じであることを確認(sure)することもできないし、誰も、赤色の自分への現象と他人への現象が同じであることも確認することはできないが、[たとえば]眼に斜めに置かれた円が楕円の形で現象する理由なら、我々は示すことができる。[一般に] 現実的な図形・大きさ・位置(position)から、数学的推論(mathematical reasoning)を経由して、視覚的な図形・大きさを・位置を、導き出(deduce)すことができると考えられる。[それはどういうことかというと] 、正常かつ明瞭に見える眼の持ち主は、条件さえ同じなら、誰であろうとあの円をまさにあの楕円の形で見ると証明(demonstrate)できると考えられるし、さらにそれだけではなく、[眼のまったく見えない]先天的な盲人でさえ、数学教育さえ受けていれば、与えられた物体の現実的な図形・大きさ・位置に対して、その物体の視覚的図形を決定(determine)することができる、と私は主張して憚らないのである。[なぜなら現に全盲の]サンダーソン博士は球体の射映と遠近法を理解していた(understand)からである。さて物体の視覚的図形を決定するに当たっては、盲人にどの程度の知識(knowledge)が要求されるかといえば、中心に眼が位置する空の球体があって、与えられた物体の輪郭(outlines)を[眼からこの]球体の表面(surface)に向けて射映する(project)だけの知識があれば、それで足りると私は思う。[球面への物体の輪郭の]射映が、盲人に欠けた(wants)視覚的図形に相当するだろう。なぜなら[後述のように] この射映は、[健常者の]視覚において網膜(tunica retina)に射影される図形と同一図形(the same figure)だからである。」

 

[第7節段落2]        盲人の空間は二次元である

「盲人は、対象(object)の各点から眼の中心に向けて[点と同じ数の]線が引かれている状態を思い浮かべることができるし(conceive)、それらの線が互いになす角度を思い浮かべることもできる。さらに、対象の長さ(length)が眼のところで張る角度に応じて、その対象の長さが大きく現象したり小さく現象したりすることにも盲人は思い至るし(conceive)、同じことは[対象の] 幅(breadth)についても言える。そこで一般的な言い方をすれば、盲人は、対象の或る点と別の点の距離が、この距離を対辺とする三角形が眼のところで張る角度に応じて、大きく現象したり小さく現象したりする、ということに思い至る。さて[サンダーソン博士のような]盲人が球体の射映や遠近法の図(draught)を厚さ抜きで(no thickness)思い浮かべたことから推して、 彼らは苦もなく視覚的現象も厚さ抜きで思い浮かべることができるに違いない。[ただし対象と眼の間の距離についてだけはそうはいかない。] 盲人は、或る対象がもう一つの対象よりも[眼に] 近いまたは遠いという区別ができるためには、眼の経験(experience)の助けが必要だと誰かから聞かされるかもしれないし、ありそうなことだが、自力でそう推察するかもしれない。[しかしいずれにせよ]盲人は、「光線は、遠くから来ていようが近くから来ていようが、眼に対する刺激(impression)として差異はない[すなわち、光線は対象の遠近についてニュートラルである]」という考え方に傾くことだろう。」

 

[第7節段落3]       盲人は固有の原理によって固有の数学を展開する

「以上が、私が盲目の数学者[サンダーソン]に備わっていると想定(suppose)する原理のすべてである。彼はこれらの原理を人から教えられたか(information)、あるいは反省(reflection)によって獲得したか、そのいずれかであろうが、いずれにせよ次のことは確かである。[第一に]物体の現実的図形と現実的大きさを彼に示し(given)、[第二に]眼に対する物体の位置(position)と距離(distance)を示してやれば、盲人は上の諸原理を駆使して、物体の視覚的図形と視覚的大きさを[数学的に]求める(find out)ことができるということ、このことが確実である。[だがそれだけではなく]、盲人は上記の諸原理を使って次のことを[すべての物体にわたって]一般的に(in general)証明(demonstrate)することができる。すなわち、中心に眼が位置する空っぽの球体(sphere)があって、物体を[眼から]その球面(surface)に向けて射映したときの射映(projection)の図形が、まさにその物体の視覚的図形であることを、証明することができる。さらに盲人は、物体の視覚的な大きさの大小もまた、物体の射映が占める球面部分の大小に対応することを、一般的に証明することができる。」

 

[第7節段落4]        視覚的図形は眼に対する対象の位置(position)で規定される

「このことを別の視点から眺めるために、まず次の二つを区別しよう。すなわち、「対象の眼からの距離(the distance from the eye)」と「眼に対する対象の位置(the position of objects with regard to the eye)」を区別しよう。[上述の、中心に眼が位置する球面に対象を射映するという設定の下では]、眼の中心から引かれた[同じ]一本の直線上にある対象たちは、眼からの距離の如何にかかわらず、すべてが同じ位置(position)にある。それに対して、眼の中心から引かれた異なる直線上の対象は、互いに異なる位置を持つ。その場合、位置の違いは、直線[と直線が]眼のところで張る角度が大きければ大きく、小さければ小さい。以上が眼に対する対象の位置(position of objects with regard to the eye)の定義である。さて物体の現実的(real)図形が物体の諸部分相互(with regard to each other)の「配置(situation)」から成り立つように、上の「位置」の定義に鑑みれば、物体の視覚的図形は明らかに物体の諸部分の眼に対する(with regard to the eye)「位置(position)」から成り立っている。さて物体諸部分相互の「配置」を判明に思い浮かべる者は、物体の現実的図形を判明に思い浮かべるのだから、[同様に] 物体各諸部分の眼に対する「位置」を判明に思い浮かべる者は、物体の視覚的図形を判明に思い浮かべるに違いない。そうだすると、盲人が物体の諸部分相互の「配置」を[触覚によって]思い浮かべるとして差し支えないように、盲人が物体の諸部分の眼に対する「位置」を思い浮かべることができるとしても差し支えあるまい。そこで私は、盲人は物体の視覚的図形(visible figure)を判明に思い浮かべること(distinct conception)ができると、結論するのである。」

 

[第7節段落5]        盲人が抱く視覚的図形の概念

「ここまでの議論によって、盲人が物体の視覚的延長と視覚的図形を思い浮かべる(conceive)ことは十分に証明されたが、この結論への疑念を根絶しておくためにも、盲目の数学者が心の中で視覚的図形について形作る概念(the notion which a blind mathematician might form to himself of visible figure)と、視覚において眼に現前しているもの(that which is presented to the eye in vision)を比較し、両者の違いを見極めておくことは時宜にかなっている。」

 

[第7節段落6]    現前の場合、視覚的図形には色または硬さが随伴する

「第一の違い。 [健常者の場合] 眼に呈示される視覚的図形はかならず色と結びついている。本性的に形と色に繋がりはないが、両者はいつも同伴するので、どんなに想像力を働かせても両者を分離することは難しい。さらに事態を悪化させるのは、我々が視覚的図形を思考の対象にすることに不慣れなことである。視覚的図形は記号(sign)として使われるのみであり、記号としての役目を果たせば、痕跡を残さず消失する。この捉えづらい形(fugitive form)を掴み取り、その写し(copy)を作ることがペン画家やデザイナーの業務なのだが、どんなに努力しようが練習しようが、この作業が楽になる当てはない。[画家が]この捉えづらい形を想像力で捕える(arrest)技術を身につけ、それを描写(delineate)できるようになったら、それはまことにご同慶の至り(Happy!) である。 なぜならそのとき画家は、コピー使用時に比べて遜色なく、実物(life)を正確に描くことができるようになっている筈だからである。しかし熟達したデザインの大家でも、この完成度のレベルに達する者は稀である。そもそもこの形(form)を思い浮かべること自体が難しいのだから、形を[色という]随伴物(constant associate)から切り離しながら思い浮かべることはなおさら難しいのである。ところでくだんの盲人[サンダーソン博士]が視覚的図形について抱く概念(notion)は、[健常者と違って]色と結びついていない。[なぜならそもそも]盲人は色を思い浮かべる能力がないからである。視覚的図形について盲人が持つ概念に結びついているのは、おそらく彼が触覚を通して親しんできた硬さ(hardness)もしくは滑らかさ(smoothness)の方だろう。現実には同じ物(things)が[健常者と盲人で]違って受け取られる(seem different)のは、[健常者では]視覚的図形に色が随伴するが、[盲人では]視覚的図形に硬さもしくは滑らかさが随伴する、という違いが影響を及ぼすからだろう。[要するに、現前する対象と視覚的図形の違いは、色が随伴するか否か(健常者の場合)、硬さが随伴するか否か(盲人の場合)の違いである。]」

 

[第7節段落7]        盲人の視覚的図形の概念は数学的推論に依存する

「第二の違い。盲人は視覚的図形の概念(notion)を心の中で(to himself)形成(form)するが、その形成は思考(thought)を通じて、しかも諸原理に立脚した数学的推論を通じて行われる。他方、眼の見える者が視覚的図形の概念を形成するとき、この概念は、特段の努力や特段の推論を要さず、あたかも霊感(inspiration)が働いたかのように、彼の眼前に一挙に提示される(presented at once)。[もちろん健常者の中にも様々な健常者がいて]、 絵画であれ線描であれ[とにかく描かれた状態で]放物線やサイクロイドを一度も見たことがないのに、その数学的定義に立ち帰るだけで、放物線やサイクロイドの概念を心の中に形作ることができる健常者がいる。そうかと思えば、図形の数学的定義には不案内なのに、画布に描写されているのを見るだけでその図形だと分かり、木に刻まれているところに手で触れるだけでその図形と分かる健常者もいる。前者は数学的推論によって、後者は感覚によって、[それぞれの流儀で]図形を判明に思い浮かべている(conception)わけだが、盲人が視覚的図形の概念を形成する方式は、前者の健常者が見たこともない放物線やサイクロイドの概念を[数学的推論によって]形成するのと同じやり方である。」 

 

[第7節段落8]     盲人の視覚的図形は、人間一般の理性と想像力の所産である

「第三の違い。健常者の場合は、視覚的図形から、それが記号指示する現実的図形の理解に、直に進むという関係が成立している(visible figure leads・・・ directly to the conception of the real figure)。さて[視覚的図形が現実的図形の記号(sign)であるのは盲人の場合も同じだが]、しかし盲人の思考は眼の見える人間とは真逆の方向をたどっている。なぜなら、盲人ははじめに(first) 物体の現実的図形、現実的距離、現実的配置を[触覚的に]知り、あとになってから(from thence) 数学的推論を通じて視覚的図形を徐々に描く(trace out slowly)からである。[ちなみに]盲人は、盲人の特性(nature)に突き動かされて、視覚的図形という記号を思い浮かべるのではない。視覚的図形という記号は、[むしろ]盲人もまたそれに与かるところの、[人間一般の]理性(reason)と想像力(imagination)の所産である。」

 

 

 

 

 

 

 

第6章(第8節) 視覚的図形に関する若干の問いに対して

 

[第8節段落1]         視覚的図形はどんな種類の物なのか

「視覚的図形はどんな種類の物(thing)なのだろうか。感覚作用(sensation)だろうか観念(idea)だろうか。観念だとすると、どんな感覚作用から写し取られた観念なのだろうか。だが、現代の一部の哲学者が開設した異端審問の法廷(tribunal of inquisition)があり、自然のすべての事物がその審問に対して申し開きをしなければならない以上、上の問いを瑣末とか的外れと言って済ますことはできない。審問の項目はわずかだが、結末は戦慄すべきものである。審問はこうである。「汝、被告人は刺激(impression)であるか観念(idea)であるか。もし観念であるならば、汝はいかなる刺激の写しであるのか」。だが被告人が刺激でも、刺激から取られた観念でもないことが明らかとなると、判決中止の申し立ても認められずに、即刻、被告人は死刑判決を下され、未来永劫、意味のない空耳のようなもの(an empty unmeaning noise)、死者の怨霊のようなものとされてしまうのである。」

 

 [第8節段落2]    視覚的図形は刺激でなく観念でもない

「この戦慄の法廷では、原因と結果、時間と場所、物質と精神がすでに審理に付され(tried)、判決まで受けている(cast)。さて視覚的図形のごときしがない存在は、この裁きの場で一体どう振る舞えば良いものだろうか。視覚的図形は有罪を認めて、自分は刺激(impression)でなく観念でもないと白状せざるを得まい。なぜなら、ああ何としたことか(alas)、視覚的図形が長さと幅において延長していることは公然周知の事実だからである。それは長かったり短かったり、広かったり狭かったり、三角形だったり四角形だったり円形だったりする。観念と刺激が延長せずかたどられても(figured)いない以上、視覚的図形がこの[観念と刺激の]カテゴリーに属すことはあり得ないのである。」

 

[第8節段落3]           視覚的図形は代理物(記号)のカテゴリーに属す

「では、この視覚的図形はどんな存在(beings)のカテゴリーに属すのかと問われたら、私にできることはいくつかの目安(token)を示すことだけであり、それを使ってカテゴリー表に視覚的図形を[厳密に]位置づける作業は、この方面に明るい方々にお任せしたい。すでに述べたように、視覚的図形とは型どられた(figured)物体の諸部分の、眼に対する位置(position with regard to the eye)のことである。物体の諸部分が眼に対してとる諸位置(positions)は、合することによって(put together) 、[一方では] 長さと幅について文字どおり延長した(truly extended)一つの現実的な図形(a real figure)をなすが(make)、それは[他方では]長さと幅と厚みにおいて延長した図形(figure)を代理(represent)するのである。それはちょうど、球体[地球?]の射映が、[一方では]長さと幅を持つ現実的な図形(a real figure)をなしつつ、[他方では]三つの次元を有する球体を代理するのに似ている。代理物(representative)であることについて、球体の射映や宮殿の遠近画法と、視覚的図形の間に違いはない。だから射映と遠近法がカテゴリー表に座を占めるのなら、視覚的図形もこれら二つと同じ枠に(next door to them)[つまりカテゴリー表の「記号/代理物」の枠に肩を並べて]収まる道理である。」

 

[第8節段落4]           視覚的図形の現前を説明するための思考実験

「さらなる問いはこうである。視覚の場合、視覚的図形を暗示(suggest)するような固有の感覚作用があるのだろうか。またそのような感覚作用がないとすれば、視覚的図形はどんな段取りで心(mind)に現前する(present)のだろうか。これは、見るという能力を明確に理解するうえで疎かにできない問題である。この論点に光明を投げるために必要なことは、[視覚という]感覚を他の感覚と比較し、さらにいくつかの思考実験(suppositions)を試みることである。この思考実験のおかげで、本来は別物なのにしばしば混同されてきたものを区別できるようなるかもしれない。」

(訳者。段落の6から9までがその思考実験である。)

 

[第8節段落5]           視覚には、感覚作用に回収されない何かがある

「我々に備わる感覚のなかには、遠くにある物の情報をもたらす感覚が三つある。嗅覚、聴覚、視覚である。嗅覚と聴覚の場合、まず感覚作用すなわち心への刺激(impression)があり、[心と身体の]機構の導くままに(by our constitution)、我々はそれを外的な何かの記号(sign)として思い浮かべる(conceive)。ただし嗅覚と聴覚の場合、感覚器官との関係において、外的事物の位置(position)が感覚作用に伴って心に現前するわけではない。馬車の音を聞くとき、音を出す物体が上方にあるか下方にあるか、右手にあるか左手にあるかを、私はおそらく経験に先立っては(previous to experience)決定できない。感覚作用は、或る外的対象(external object)を自らの原因または理由(cause)として私に暗示(suggest)するけれども、その対象の位置(position)まで、それはこれこれの方向にあるという仕方で、暗示する訳ではない。(同じことは嗅覚にも言える。)しかし視覚においてはまったく事情が異なっている。私が或る対象を見るとき、その対象の色が引き起こす現象は[たしかに]感覚作用(the sensation)ではあって、[感覚作用である以上、嗅覚や聴覚同様に]外的な事物をその原因(cause)として私に暗示する。しかし対象の色が引き起こすこの現象は、上のことに加えて、眼との関係におけるこの原因の特定の方向(direction)と特定の位置までを暗示する。それはこれこれの方向にあり、他の方向にはないということを、私ははっきりと知るからである。さてそのとき私は感覚作用と呼べるようなものを意識(conscious)してはいるが、それは[あくまでも]「色]の感覚作用でしかない。色を有する対象の「位置」は感覚作用ではない。対象の位置とは、私の[心と身体の]機構(constitution)の定めにしたがって、しかし付加的な感覚作用の力を借りることなく、色に随伴して心に現前する何かなのである。」

 

[第8節段落6]       視覚的図形のための感覚作用は存在しない(思考実験1

「人間の眼の場合、対象の或る一点に発する光線(ray)は網膜の一点に集約される(collected)ようにできている。だが、その光線が網膜の全体に拡散(diffused)するようにできていると想定すると(suppose)、目の構造を理解している人間にとって次の事柄は明白である。すなわちいま想定したような眼は、色についてなら、普通の眼が見るように物体の色を見るだろうが、図形(figure)や位置についてはそうはいかない。そのような眼の働きは聴覚や嗅覚のそれと同断であって、色の知覚は与えても、形態の知覚(perception)および位置の知覚は与えないのである。しかし上記の想定は決して絵空事ではない。というのは白内障をわずらう人はおおむね上のような状況にあるからである。チェゼルデン博士によれば、白内障患者の水晶体は光線をすべて排除するのではなく、むしろ光線を網膜上に拡散するのである。それは、壊れたゼリーの入ったグラス(a glass of broken gelly)越しに物を見るようなものであって、色は知覚しても、対象の図形と大きさはまったく知覚できない。」

(訳者。a glass of broken gelly とは何か。まず gelly jellyと見る。さらにjelly glass については、「ゼリーやカスタード菓子を入れるための、高さ4インチ程度のグラス」という情報がある。)

 

[第8節段落7])          視覚的図形のための感覚作用は存在しない(思考実験2)

「しかし今度は、臭いと音も[光と同じく]対象から直線状に(in right lines)伝播する、また聴覚と嗅覚の感覚作用は[視覚と同じく]対象の方向と位置を明確に暗示する、という思考実験をしてみよう(suppose)。この場合、聴覚作用と嗅覚作用は視覚作用に類似するだろう。すなわち我々は、対象の図形を見ているときと同じやり方で、対象の図形を臭ったり対象の図形を聞いたりすることになるだろうし、現状で色についてそうであるように、臭いと音も想像力によって或る図形と連合されることになるだろう。[だがこの結論は経験に反する。よって冒頭の想定は破棄される。]」

 

[第8節段落8]           視覚的図形のための感覚作用は存在しない(思考実験3

「光線が網膜上に何らかの刺激を及ぼしていることは疑えない。だが我々はこの刺激を意識することはないし、解剖学者や哲学者もこの刺激の本性と[それが引き起こす]結果(effect)を解き明かすに至っていない。この刺激は神経に振動(vibration)を引き起こすのだろうか、神経内部の微細な流体に運動(motion)を引き起こすのだろうか、あるいはそのどちらでもなく、聞いたこともないような何かを引き起こしているのだろうか。そのいずれであろうと、私は[とりあえず]この[意識されない]刺激を物質的刺激(material impression)と名づけることにする。この場合、次のことに注意されたい。すなわち、それは[刺激は刺激でも]心ではなく身体への刺激であること。また[身体への刺激である以上]感覚作用(sensation)でもないこと。さらに図形や運動が思惟(thought)に類似しないように、この物質的刺激は感覚作用に類似しないということ。さて網膜上の特定の点で起きたこの物質的刺激は、我々の[心と身体の]組成の法則に則って、心に二つのもの、すなわち外的な(external)対象の色と、外的な対象の位置を暗示する。この場合、なぜ物質的刺激が、対象の位置に沿って音を暗示しない理由、対象の位置に沿って臭いを暗示しない理由、あるいは対象の位置に沿って両方を暗示しない理由は、誰にも分からない。物質的刺激が暗示するのが色と位置だけであることは、我々の[心と身体の]組成のなせる技とするか、それとも我らの創造者の御意思に帰すか、どちらかである。さてこの物質的刺激が暗示する二つのもの[色と位置]の間に必然的関係がない以上、神の思し召し次第では、一方だけが暗示され、他方が暗示されないということがあったとしてもおかしくない。そこで、我々の眼が、色やその他の質を暗示せず、対象の位置[だけ]を暗示するように創られていることはありそうなことだから、そのような思考実験を試みよう。さてこの思考実験から何が帰結するだろうか。帰結は明らかにこうである。このような眼を有する人間が物体の視覚的図形を知覚するとき、彼は感覚作用には訴えていないし、心への刺激にも頼っていない。この人物が知覚する図形は、まったく外的(external)であり、だからそれを心への刺激と形容することは言葉の重大な乱用なのである。心へのこのような刺激なしでは、我々には図形を知覚することができないとおっしゃるなら、ぜひ、できないことの証明を見せて頂きたいものだが、私はそのような証明を寡聞にして知らない。また図形が心に刺激を加えるという言い回しの意味も解せない。蝋(もしくは刺激を許容する物体)への図形の刺激なら理解できるが、心への刺激だけは私にはどうにも理解不能なのである。図形をどんなに判明に理解しても、いくら厳密に精査しても、心への図形の刺激を見つけることは私にはできない。」

 

[第8節段落9]       視覚的図形のための感覚作用は存在しない(思考実験4

「最後に、[そこでは、物質的刺激は位置は暗示しても、色は暗示しないとされた前段の]あの眼が、色を知覚する能力を取り戻したという思考実験は、どうだろうか。[しかし]この眼はやはり前段と同じ仕方で図形を知覚するのであり、ただ、色が常に図形に随伴する点が異なるに過ぎない。」

 

[第8節段落10]         視覚的図形のための感覚作用は存在しない(思考実験の結論)

「そこで先の[段落4の]問いにはこう答える。視覚的図形に特化された(appropriated)感覚作用は存在しないと。すなわち視覚的図形を暗示するという任務を受け持つ感覚作用は存在しないと。[むしろ]器官(organ)への物質的刺激(material impression)があって、[たしかに]我々はこの刺激を意識しないが、それでもこの物質的刺激が直に(immediately)視覚的図形を暗示する、というのが実態ではないか。ボールを掴んだとき、手に加わる物質的刺激は現実的な(real)図形を暗示するが、ではなぜ[同じく]網膜への物質的刺激が視覚的図形を暗示していけないのだろうか。前者では、一つの物質的刺激が硬さ、熱または冷たさ、そして現実的図形をすべて同時に暗示し、後者では、一つの物質的刺激が、色と視覚的図形をともに暗示するのである。」

        

[第8節段落11]          記号は自らを隠す(視覚的図形) (1)

「私はこの主題に関するもう一つの問いで本節を閉じようと思う。物体の触覚的図形が、触覚に対する現実的で外的な対象(a real and external object)であるように、物体の視覚的図形も眼に対する現実的で外的な対象である。しかしそこで問題になるのは、触覚的図形に注意を向ける(attend)のは易しいのに、視覚的図形に注意を向けるのはなぜ難しいのかという点である。[そもそも]視覚的図形が眼に現前する回数は、触覚的図形が触覚に現前する回数よりも、頻度において優っている。視覚的図形は、判明で確定的(determinate)という点でも、触覚的図形に見劣りしないし、視覚的図形はあれこれ思い巡らす(speculation)要素にこと欠かない。それにもかかわらず、視覚的図形はまず注意の対象にはならない。バークリー主教が触覚の対象である図形と区別するために、いま我々が彼に倣って使っているこの[視覚的図形という]言葉を提起するまでは、どの言語もそれに名前すら与えてこなかったのである。」

 

[第8節段落12]           記号は自らを隠す(視覚的図形) (2)

「物体の視覚的図形に注意を向け、それを思考の対象にすることが難しいのは、感覚作用に注意を向けることが難しいのに非常によく似ている。おそらく二つの難しさにはきっと共通の原因があるのだろう。自然は視覚的図形を、触覚的図形と物体の配置(situation)のための記号として意図したのであり、視覚的図形をその用に供するための一種の本能を、我々に与えたのである。心が視覚的図形を高速で通り過ぎ、[もっぱら]その視覚的図形が記号表示する(signify)物の方に注意を向けるのはそのためである。心が視覚的図形で立ち止まりそれに注意を向けるのは、球体が斜面で停止するようなものであって、不自然なことなのである。心を絶えず先へ先へと動かす内的原理があるらしく、その原理に打ち勝つには逆向きの力が必要になる。」

 

[第8節段落13]        記号は自らを隠す(芸術家の側から)    (3)

「これ以外にも、自然が記号(signs)として設定しているものがある。それらに共通して言えることだが、心にはこの記号を見落とし(overlook)、もっぱら記号が記号表示(signify)するものに注意を向ける傾き(disposed)がある。人間の顔の様態(modification)が、心のそのときの在りよう(disposition)の自然記号(natural signs)になることがあるが、上のような次第で(thus)、誰もがこの記号の意味を理解するにもかかわらず、百人中のただ一人として記号自体に注意を向けず、記号について何一つ知ることがない、という[奇妙な]ことが起きるのである。[情念を巧みに読み取る]実技に優れた人相見なのに、顔の比例についてははなはだ無知で、情念を絵に描いてみろ、言葉で説明してみろと言われてもできない人相見がいるのは、そのためである。」

 

[第8節段落14]        記号は自らを隠す(芸術受容者の側から) (4)

「優れた画家や彫刻家は、良い顔の比例がどんなものかを口で言えるだけではなく、ある情念は顔にどんな変化を引き起こすかということまで知悉している。これこそ絵画芸術と彫刻芸術の最大の神秘であり、それを我がものとするためには、天才という僥倖に加えて終わりなき刻苦勉励が要求される。しかし{それはそれとして}、作家が技能(art)を駆使し、幸運にも、ある情念をそれにふさわしい記号で表現(express)できたなら,そのときその記号の意味は、[自分では]その技能を欠き、[その技能について]詮索したことがない人でも、[ちゃんと]理解できる体のものなのである。」

 

[第8節段落15]          記号は自らを隠す(芸術の難しさ) (5)

「絵画について[上で]言われたことは容易に芸術全般に敷衍できる。どの分野であれ芸術の難しさとは、誰もがその意味(meaning)を理解している[のに、誰も注意を向けようとしない]自然記号(natural signs)、この自然記号に注意を向け(attend)それを知ることの難しさである。」

 

[第8節段落16]          記号への遡行の困難  

「我々は自然の衝動によって、やすやすと、記号からそれが記号表示する物へと進む。しかし[逆に]、記号表示された物から記号に逆行(go backward)することは、労苦を伴う困難な作業である。我々が、自然が記号として定めた視覚的図形から、記号表示された物には直行できるのに、記号[自体]に注意(attention)を向けるのに難儀するのは、そのためである。」

 

 [第8節段落17]          視覚的図形への遡行の困難  

「人間が視覚的図形と視覚的延長に対する注意力に欠けることを、次の事実ほどあからさまに物語る事実はない。数学的推論は、「触覚的図形と触覚的延長」および「視覚的図形と視覚的延長」[の双方]に等しく開かれている(applicable)のだが、それにも拘らず、「視覚的図形と視覚的延長」の方は数学者の注意を完全にすり抜けてきた、というのがその事実である。人は、触覚の対象である図形と延長に対しては二千年にわたって何万回も問い糺し、その口から極めて貴重な学問体系を聞き出す(drawn)ことに成功したけれども、視覚の直接的対象である図形と延長からは、ただの一言(single proposition)も聞き取りに成功していないのである!。」

 

[第8節段落18]           数学者は「視覚的なものの幾何学」を没却する

「幾何学者は、最大級の正確さをもって図(diagram)を描き、それに粘り強く眼を凝らしつつ、長い推論の果てに図の各部分の関係の証明(demonstrate)に到達する。[だがそのくせ]数学者は次のことは見落とすのである。[第一に、この証明過程を通じて]彼の眼前に現前している視覚的図形は、あくまでも触覚的図形のための代理物(representative)なのだが、彼の注意は[代理物である視覚的図形を飛び越えて]]触覚的図形の方に定位されているということ。[だが彼が見落とすのはそれだけではない]。これら二種類の図形は実際に異なる特性(really different properties)を有し、したがって一方について真(true)と証明されたことが、他方については真でないということが起こるのだが、数学者はこのことも見落とすのである。」

 

[第8節段落19]      「証明」が「視覚的なものの幾何学」を可視化する    

「上記の内容[すなわち触覚的図形と視覚的図形をめぐって、片方について真と証明されたことが、他方について偽と証明されること]は、[証明されれば真と認めるのに吝かでない]数学者にとってさえ(even to mathematicians) [さすがに]逆理(paradox)ではあろうから、その結果を数学者に受け入れさせるには[別立ての]証明(demonstration)を立てざるを得ない。ただしその証明はさほど難しくはなく、視覚的図形の数学的考察に少し立ち入れば、それで足りるのである。私はこの考察を「視覚的なものの幾何学(the geometry of visibles)」と名づけようと思う。」

 

(訳者。even to mathematicians というくだりを丁寧に読むべきである。なぜ数学者にとって「さえ(even)」なのか。

 数学者は命題に対して「証明」を要求する。そして証明さえ与えられれば、数学者はその命題を真と認めることを躊躇しない。これが数学者の習性である。

 さて数学Aの内部で命題a、たとえば「平行線が存在する」が証明されれば、数学者はそれを(数学者の習性にしたがって)真として受け入れるが、もう一つの数学Bの内部で命題b、たとえば「平行線は存在しない」が証明されれば、数学者はやはりそれも(数学者の習性にしたがって)真と認めるだろう。

 しかし、たとえそれぞれ証明されているとはいえ、これら二つの命題が「paradox(逆理)」であることは、さすがの数学者も、つまり上のような習性を持つ数学者「でも」(even)、認めざるを得ない、とリードは言っている。それが even という言葉の意味するところである。

 だがそうは言っても、逆理(矛盾)が危険であることに疑問の余地はない。逆理は「真」という言葉の息の根を止めかねないからである。対応策は二つある。

 リードは、それが逆理を生むからと言う理由で、二つの命題の片方または両方を捨てたりはしない。彼はむしろ、そこにparadoxがあること自体を「証明」しようとするのである。証明された以上、再び「数学者の習性にしたがって」、 従容として、paradox を含む A+B の全体を真として受け入れる覚悟で。

 まさに次の第9節がその「証明」に相当する。)

 

 

 
 
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