第6章(第9節) 視覚的なものの幾何学(The Geometry of Visibles)

 

[第9節段落1]   諸定義   

「この幾何学の点、線(直線、曲線)、角(鋭角、直角、鈍角)、円は、通常の幾何学の場合と同じ仕方で定義される。以下に掲げる自明な(evident)わずかの原理を正しく理解すれば、数学の心得のある読者なら容易にこの幾何学の奥義に進み入ることができる。)

 

[訳者。ここから先、原理1から命題12までを総括して、第9節段落2と呼ぶ。]

 

[第9節段落2]   視覚的なものの幾何学(原理と命題)

「原理1. 眼は球(sphere)の中心にあるものとする。球のどの大円も、眼に対して(to the eye)、もとから直線(straight line)であったかのように(as if)、現象する(appear)。なぜなら[大円が]眼の方にまっすぐ押し返されるために、大円の[外への]曲がり(curvature)が知覚されないからである。さらに同じ理由で、球の大円が載っている平面(plane)上の線は[すべて]、現実に(in reality)直線であるか曲線であるかに関わりなく、眼に対して直線として現象する(appear straight to the eye)。

 

原理2. 視覚的な直線(visible right line)は、球の或る大円[の或る弧]と重なって現象し(appear to coincide with)、しかもその大円の[任意の]弧は、先の視覚的直線の、どの部分をとっても視覚的にまっすぐな(in directum)延伸(continuation)として現象する。(このことは、大円の弧を元に戻るまで伸ばした場合にもいえる)。その理由はこうである。眼は、[眼と]対象の距離を知覚せず、眼に対する対象の位置(position of objects with regard to itself )のみを知覚する。そこで眼は、二つの点が眼との関係において同じ位置(same position)にありさえすれば、両者が同じ視覚的場所(same visible place)にあると見なし、そのとき二点と眼の距離の違いは度外視する。さて、眼と或る(given)視覚的直線を含む平面には、球の或る大円が載っているが、視覚的直線上の各点に対して、それと位置を共有する大円上の点を[一対一に]取ることができる。故に[点たちの集まりとしての]この視覚的直線と、[やはり点たちの集まりとしての]大円[の或る部分]は、視覚的場所(place)を共有し、両者は眼に対して重なる(coincide to the eye)。なお大円の周を元に戻るまで延ばしたものすなわち円周全体を考えても、それは[やはり]元の直線の延伸として現象する。[これで本段落の第一文が証明された]。

 

以上の事柄から次の事柄が帰結(follow)する。

 

原理3. 或る視覚的直線を、許される範囲でまっすぐに(in directum)延伸して生まれるすべての視覚的直線は、いずれも、眼を中心とする同じ球(a sphere)の同じ大円(a great circle)[の或る部分]で代理(represent)される。従って

 

原理4.  二本の視覚的直線が張る視覚的角度(visible angle)は、これら二本の視覚的[直]線を[それぞれ]代理する二つの大円の張る球面角(spherical angle)に等しい。なぜなら、[まず前段から、二本の]視覚的[直]線は[それぞれ或る]大円に重なる(coincide)ように現象し、これら二本の視覚的直線が張る視覚的角度も、二つの大円が張る視覚的角度に等しくなければならない。しかし数学者なら知っているように、二つの大円が張る視覚的角度の大きさは、中心から見たとき、その二つの大円が[視覚的にではなく]現実に(really)張る球面角の大きさに一致する。故に、二本の視覚的[直]線のなす視覚的角度は、それらの線分を代理する、球の二つの大円のなす球面角に等しい。

 

原理5.  以上から次のことが明らかである。視覚的直線からなる(visible right-lined)三角形は、どの部分についても、或る球面三角形に重なる(coincide)。[なぜなら]前者の各辺(side)は後者の各辺にそれぞれ等長として現象し(appear equal)、前者の角は後者の角にそれぞれ等角として現象し(appear equal)、したがって前者の三角形全体は後者の三角形全体に相等(equal)として現象するからである。約言すれば、眼にとって二つの三角形は同一(one and the same)なのであり、数学的特性(mathematical properties)を共有する関係にある。したがって視覚的直線からなる三角形の特性は、平面三角形ではなく、むしろ球面三角形の数学的特性に一致する。

 

原理6.  眼が球の中心に位置するという従来の想定(suppose)はここでも堅持する。そのとき、球の小円(lesser circle)はすべて、眼に対して円として現象する(appear a circle)。逆に(on the other hand)、視覚的な円(visible circle)はすべて、球の或る小円に重なって現象している(appear to coincide)。

 

原理7. さらにこういうことがある。球の表面の全体は視覚的空間の全体を代理する(the whole surface of the sphere will represent the whole of visible space)。なぜなら、視覚的点はかならず球表面上の[或る]一点と[一対一に]重なり(coincide)、両者は同じ視覚的場所(visible place)を持つ。だから球の表面(spherical surface)のすべての部分を併せた(taken together)ものが、可能な視覚的場所のすべて(all)を、すなわち視覚的空間の全体を代理するのである。そして以上のことから最後に次のことが帰結する。

 

原理8.  眼は球の中心に位置すると[ここでも]想定する。視覚的図形(visible figure)が球の表面に射映(project)されるとき、球の表面で、射映を受け入れた部分は、当の視覚的図形を代理する(represent)。しかも視覚的図形が視覚的空間の全体に対して占める割合(比、ratio)は、その図形を代理する球表面の部分が、球表面の全体に対して占める割合に等しい。

 

数学の心得のある人々にとって、こうした諸原理を理解するのは造作もないことであろうし、またそうであって欲しい。私は[この幾何学の]見本として、視覚的図形と視覚的空間に関する若干の命題を以下に掲げておく。数学の心得のある人々は、これらの命題が先の諸原理から数学的に証明(demonstrated)できること、したがってそれが触覚的図形(tangible figures)に関するユークリッドの命題に劣らず真(not less true)であり、それに劣らず明証的(nor less evident)であることを悟るだろう。

 

命題1.  [視覚的]直線は、延伸されると、最終的に自己に回帰する。

 

命題2.  自己に回帰する[視覚的]直線が、考えられる最長の[視覚的]直線である。それ以外の[視覚的]直線は、それに対して有限の比(finite ratio)を持つ。[最大長の有限性]

 

命題3. 自己に回帰する[視覚的]直線は、視覚的空間の全体を相等しい二つの部分に分割し(divide)、どちらの部分もこの[一本の視覚的]直線によって囲まれる(comprehended)。

 

命題4.  視覚的空間の全体は、視覚的空間のどの部分に対しても有限の比をとる。[最大面積の有限性]

 

命題5.   二本の[視覚的]直線は、延伸されると、二点で交わり、互いに他を二分割する(bisect)。[したがってこの幾何学には、ユークリッドの意味で平行な二直線はありえない。ユークリッドの第五公準の否定。]

 

命題6.  平行な(parallel)二本の線(lines)の場合、すなわちいたるところで互いに等間隔な二本の線の場合、両方が[視覚的]直線ということはありえない。[すなわち二本の線のうち少なくとも一方は視覚的直線でない]。

 

命題7.  与えられた[視覚的]直線に対して、或る一点を見つけて、この点と直線上のすべての点が等距離になるようにすることができる。[なおリードはこの条件を満たす点は一個「だけ」だとは主張してはいない。たとえば、赤道という名の視覚的直線に対しては、北極点と南極点の二点が取れる。]

 

命題8.  或る[視覚的]直線に対して、それと平行な(parallel)[視覚的]円を見つけることができる。つまり、或る[視覚的]直線に対して、或る[別の視覚的]円を見つけて、その円上のどの点をとってもこの直線と等距離にすることができる。[すなわち或る大円に対しては、それと平行な小円を見つけることができる。]

 

命題9.   [視覚的]直線からなる(right-lined)相似(similar)な[二つの]三角形は、相等(equal)である。

 

命題10. [視覚的]直線からなる三角形の場合、三つの[視覚的]角の和は二直角より大きい。[正確には、180度より大きく、540度より小さい。]

 

命題11.  [視覚的]直線からなる三角形の場合、すべての[視覚的]角が直角のこともあれば(may)、すべての[視覚的]角が鈍角のこともある(may)。

 

命題12.   異なる二つの[視覚的]円の面積比は直径の平方比でなく、二つの[視覚的]円の周長の比は直径比ではない。」

 

 

 

[第9節段落3]   二つの幾何学の相互関係

「視覚的なものの幾何学のささやかな見本をここに掲げた意図は、読者を、視覚によって心に現前(present)する図形と延長(extension)についての明晰判明な理解へと導き、併せて私が先に主張した事柄の正しさ(truth)を証明する(demonstrate)ことである。ちなみに私の主張はこうであった。[第一に]視覚の直接的対象である図形および延長は、通常の幾何学が扱う図形および延長と相違すること。[第二に]図(diagram)を見ながら命題の証明に取り組む数学者の眼前には図形が現前しているが、その[視覚的]図形は触覚的図形(tangible figure)のための記号(sign)、代理物(representative)に他ならないこと。[しかし第三に]数学者はこの視覚的図形にいささかも注意を向けず、その注意力はひとえに触覚的図形に向かっていること。[第四に]これら二種類の図形は異なる特性を有し、一方で証明されることが他方については真でない[場合がある]こと。」

 

[第9節段落4]   視覚的図形では、記号と対象は近似する

「ただ次のことは注目に値する。球面の微小な部分をとった場合、それと平面の間には感知できる程の差異は見当たらないが、視覚的延長の微小な部分をとった場合も、それと触覚の対象である延長の間に差異はないか、あるとしてもその差異は長さと幅についてのごくわずかの違いでしかない。さらにもう一つ、次のことも注目に値する。人間の眼の場合、対象がはっきりと一目で(at one view)見えるのは視覚的空間のわずかな部分に限られるということ。なぜなら我々には、眼の軸からある程度以上の距離にあるものは判明に見えないからである。だから大きな対象を一目で見ようと思えば、対象が視覚的空間の小さな部分に収まるように、眼を[対象から]相当の距離におかねばならない。こうした観察からわかるように、平面図形(plain figure)が眼に対して斜めではなく正対(direct)するように置かれていて、しかも一目で見られているとすると、それは眼に現前する視覚的図形とほとんど差異を持たない。[たとえば]触覚的図形(tangible figure)に含まれる複数の線の[長さの]比は、視覚的図形のそれにほぼ一致する。触覚的図形に含まれる線のなす角も、数学的に厳密に言えば同じではないが、視覚的図形のそれに高度に近似してはいる。自然記号とそれが記号表示する(signify)事物が似ていない事例は多いが、視覚的図形についてはそんなことはない。平面図や側面図がそれの代理するものに近似性(similitude)を有するように、すべての視覚的図形はそれが記号表示する事物に近似性を有するのである。[それどころか視覚的]記号とそれが記号表示する事物について、図形と比率が余すところなく(to all sense)一致する場合すらある。さて、視覚は持つが他の外部感覚を欠くような存在者、しかも自分が見る(see)ものについて反省したり推論したりする能力を有する存在者、そんな存在者(being)がいたらどうだろうか。純粋に(purely)視覚から導かれる知覚を、他の感覚に起源を有する知覚から区別するという困難な仕事に取り組んでいる我々にとって、上記のような存在者についての知見や哲学的考察は大いに益することだろう。そこでこのような存在者を想定し、彼が視覚的対象をどう理解(notion)するのか、またその視覚的対象に基づいて何を結論するのかを、可能な範囲で考えて見ることにしよう。我々[人間]には、視覚的現象を視覚的現象以外の何か(something else)のための記号(sign)と考えるような[心と身体の]機構(constitution)が備わっている。だがあの存在者にもそういう機構が備わっていると考えることはできない。彼の場合、記号表示されるものが存在しない以上、視覚的現象は記号ではないのである。要するにこういうことである。人間は物体(bodies)の触覚的図形と触覚的延長に注意を向けるようにできているが、それと同じ意味合いで、くだんの存在者は物体の視覚的図形と延長に注意を向けるようにできていると、そういうことなのである。」

 

[第9節段落5]   二次元的人間   

「様々な図形が感覚(sense)に現前させられそれらに親しむにつれて、この存在者はかならず、それらを相互に比較し、諸対象の間に共通点と相違点を見出す。 [ただ]彼は視覚的対象(visible objects)が長さ(length)と幅(breadth)を持つことには気づくが、人間が第四次元を認識しないように、彼は第三次元を認識することはない。[彼においても]視覚的対象は線(lines)(直線または曲線)によって限界づけられて(terminated)現象し、同じ視覚的な線によって限界づけられた対象は同じ場所を占有し(occupy)、視覚的空間の同じ部分を充填しはする(fill)。[しかし]ある対象が別の対象の背後(behind)にあるだとか、ある対象は近いが別の対象は遠いといったことに、彼が思い至ることはないのである。」

 

[第9節段落6]   二次元的人間と三次元的人間(包含と排除)  

「三つの次元に思い至る我々[人間]は、[第一の可能性としては、三つの次元すべてについて]線を直線(straight)として思い浮かべるか、[第二の可能性としては]線を[二つの]次元については直線として、そして[残りの]一つの次元については曲線(incurvated)として思い浮かべるか、最後に、線を[一つの次元では直線として]、二つの次元では曲線として思い浮かべるか、そのいずれかである。線[lines,直線とも曲線とも未決]を上向き(upward)あるいは下向きに(downward)引くと、この線の長さ(length)が[線の]一つの次元を与えるので、これを上下の次元と呼ぶ。次元はあと二つあるが、線はこれらの次元について直線または曲線である。線は右に屈曲するか、左に屈曲するか、どちらにも屈曲しないかであり、[最後の場合]線はこの[第二の]次元について直線である。しかし左右の(right or left)次元において直線と仮定しても、次元にはもう一つあって、線はこの[第三の]次元で曲線である可能性がある。なぜなら前後(backward or forward)への屈曲(incurvature)が考えられるからである。さて[視覚的には三つの次元に思い至る]人間が触覚的直線を思い浮かべるとき、その人間は「左右の次元での曲がり」と「前後の次元での曲がり」を両方とも排除(exclude)している。ところが、思い浮かべて排除しようが、思い浮かべて含めようが(included)、思い浮かべたことに変わりはないから、結局、人間の直線の概念には[原則的に]三つの次元すべてが関与してはいる。[すなわち人間の場合] 直線とは、[まず]長さが一つの次元をなし、[そのうえで] 他の二つの次元については、それらを思い浮かべるに当たって、直線性が包含され(included)、曲がりが排除された(excluded)もののことである。」

 

[第9節段落7]   承前

「先に想定された存在者は、線については、長さの次元ともう一つの次元[幅の次元]には思い至るが、それ以上の次元には思い至らないので(no conception of more than two dimensions)、この線を二つの次元の両方について(in more than one dimension)、直線なり曲線なりとして思い浮かべることが、どうしてもできない(cannot possibly)。[それはこういうことである。]この存在者が線を[一つの次元について曲線でなく]直線として思い浮かべるには、右あるいは左への曲がり(curvature)を排除(exclude)すれば済むが、[もう一つの]後方または前方への曲がりの方は、[排除しようにも]排除できない。なぜなら、そもそも彼はこのような[前後の]曲がりに思い及ばないし、思い及ぶことが[そもそも]不可能だからである。これがまさに、眼に対して直線である(straight to the eye)線が、自らに回帰することが許される(may return to itself)理由である。というのは、線が眼に対して直線であるとは一つの次元における直線性(straightness)を意味するに過ぎず、何ものも線が[一つの次元では直線であっても]別の次元で曲線であることを妨げない[may]ので、何ものも線が自らに回帰することを妨げない(may)のである。」[ 訳者。may は消極的な容認を意味する。正確に言えば、mayは、「私には、あなたが・・・することを妨げる権限がない」を意味する。You may go, if you want to. は「行きたいなら、行っても構わない、行くことを妨げない、そもそも妨げる権限がない)」の謂である。「行きたいなら、勝手に行けば?」みたいな。 したがってその否定 may not は、「私にはあなたが・・・することを妨げる権限がない、のではない」ことを、つまり「私にはそれを妨げる権限がある」ことを意味する。だから may not は「禁止」なのである。]

 

[第9節段落8]   二次元的人間における面の不在について  

「三つの次元に思い至る我々[人間]の場合、面(surface)とは、長さと幅は有しても、厚さ(thickness)が排除(exclude)されているもののことである。この第三の次元について、面は、平らであるか(plain)曲がっているか(incurvated)、そのどちらかであり、その意味で(so that)、面についての理解(conception)にはこの第三の次元の観念(notion)が参加してはいる。なぜなら、この第三の次元があればこそ、面を平面(plain surfaces)と曲面(curve surfaces)に区別できるからである。第三次元を思うことなしには、平面に思い至ることも曲面に思い至ることもできない。」

 

[第9節段落9]   承前    

「ところで想定された存在者は[第一と第二の次元には思い至るが]第三の次元には思い至らない。だから彼の場合、視覚的図形(visible figure)はたしかに長さと幅を持つが、厚さ(thickness)は包含も(neither included)、排除もされてもいない(nor excluded)。思い及ばないものは、包含しようがないし排除しようもないからである。それゆえ[くだんの存在者における] 視覚的図形は[人間における]面同様に長さと幅は有するが、彼の視覚的図形は[人間における]面と違って、平ら(plain)でもなければ曲がって(curve)もいない。なぜなら曲面は第三次元における曲がり(curvature)という含み(imply)を持ち、平面は第三次元における曲がりの欠如(want)という含みを持つが、[そもそも]第三次元という想念(conception)を持たないくだんの存在者は、曲がりにも曲がりの欠如にも思い至らないからである。さらにこの存在は、確かに二本の線の傾き(inclination)や、それがなす角度を判明に思い浮かべはするが、面角(plain angle)や球面角(spherical angle)には思い至らない。点についての観念でさえ、我々の点の観念ほど限定(determined)されていない。人間の点の観念では、長さと幅と厚さが[すべて]排除されているのに対して、くだんの存在者は、長さと幅は排除しても、厚さは排除することも含めることもできないからである。それもこれも彼が厚さに思い至らないゆえである。」

 

[第9節段落10]   二次元的人間の幾何と算術   

「これで、我々が想定した存在者が、数学的な点、線、角、図形(figure)について形作る観念(notion)を押さえる作業は終わった。この存在者が、これら[数学的な点、線、角、図形]を比較し、それについて推論を重ねることによってその間の関係を発見し、自明な(self-evident)諸原理に立った幾何学的結論に到達するであろうことは、想像に難くない。また当然、彼らが人間と同じ数概念(notions of numbers)を獲得し、[その上に]算術の或る体系(a system of arithmetic)を構築する可能性も否定できない。だが、どんな順序で彼がこうした発見を積み重ねようが、またそのためにどれだけの時間と労苦が投入されようが、それは些事でしかない。むしろ彼が感覚作用の素材に依存せず、視覚の素材(materials of sight))のみに立脚して、理性(reason)と創意(ingenuity)を駆使してどれだけのものを発見するか、それが問題なのである。」

 

 

 

 

 

 

 

 

[第6章第11節]   倒立像で正立した対象を見ることについて

 

[第11節段落11]   視覚と触覚の比定(compare) (1)

「そういうことが成り立つものかどうか[つまりバークリーの言うとおり、視覚の大部分の自然現象は視覚の観念と触覚の観念の恒常的な連合に由来するという説が正しいかどうか]、この問題に最終判断を下すために、サンダーソン博士のような盲人を例に取り上げよう。すなわち盲人に許される知識と技能を全て兼ね備え、しかも突如として開眼した人間の例を取り上げる。ただし、視覚の観念に初めて触れる以前に、視覚の観念と触覚の観念を[何らかの仕方であらかじめ]結びつける機会は彼には与えられなかったと想定する。初めて見る対象が引き起こす最初の驚きがやむと、その対象を精査し(canvass)、その対象をすでに触覚を通じて得ていた観念と心の中で比定(compare.類推)する段階が次にやって来る。とくに、眼が現前させる視覚的延長(visible extension)を、すでに見知った長さと幅からなる[触覚的]延長と、心のなかで比定する段階がやって来るのである。」


[第11節段落12]   視覚と触覚の比定(compare) (2)

「我々はこんな証明を企てたこともある。すなわち、盲人が持つ物体の視覚的延長と視覚的図形の概念は、[盲人が持つ]物体の触覚的延長と触覚的図形の概念に関係(relation)づけることによって形成されたのだと。[しかし実は]関係づけるどころではない(Much more)。視覚的延長と視覚的図形が盲人の眼に[初めて]現前するとき、盲人はそれらを、触覚的延長と触覚的図形に比定する(compare.類推する)ことができる。すなわち盲人は、視覚的延長と視覚的図形が、触覚的延長と触覚的図形同様に(as well as)、長さと幅を有し、前者も後者同様に直線または曲線によって限界づけられていると思う。さらに盲人は、触覚的な円、触覚的三角形、触覚的四辺形、触覚的多辺形があるように(as well as)、視覚的円、視覚的三角形、視覚的四辺形、視覚的多辺形があってもおかしくない(may)、と思う。ちょうど、熱い触覚対象と冷たい触覚対象という二つの触覚対象がそれでも同じ図形を有するように、色を持つ視覚的図形と色を欠く触覚的図形が同じ図形を有してもおかしくない、と盲人が思うように。」


[第11節段落13]   視覚的図形と触覚的図形の事実上の一致 (1)

「視覚的図形の特性はそれが代理する平面図形の特性と異なること、このことは証明済みである。しかし同時に次のことにも言及した。すなわち、一眼で判明に見ることができるほど小さく、しかも眼に正対して置かれた対象なら、その視覚的図形と触覚的図形の差はあまりに小さく感覚では知覚されないこと。[たしかに]、平面三角形の三つの角の和は二直角であり、視覚的三角形の三つの角の和は二直角より大きいが、視覚的三角形が小さければ、三つの角の和は二直角にほぼ等しい(nearly equal)ので、感覚はその差異をほとんど識別できないこと。同様に、[たしかに]平面上の半径が異なる二つの円の周長の比(ratio)は、二つの円の半径比に等しいのに、視覚的円についてはそうではないと言うのはそのとおりだが、小さな視覚的円では、その周長の比は半径の比に極めて近くなる。その周長と半径の比は、平面上の円の周長と半径の比に非常に近い。」


[第11節段落14]   視覚的図形と触覚的図形の事実上の一致 (2)

「そこでこう考えられる。一目で見ることができるほど小さな視覚的図形は、同名の平面的な触覚的図形に対して類似性(resemblance)を有するだけではなく、事実上同一(to all senses the same)であると。だからサンダーソン博士が開眼し、ユークリッドの第一書の図形(figures)を見せられ、彼がそれを注意深く眺めたならば、手を触れることなく、思考と熟慮によって、それが自分が触覚ですでに馴染んでいたのと同じ図形であることに気づいたことだろう。」


 [第11節段落15]   視覚的図形と三次元対象の類似性

「平面的な図形(plain figure)の視覚的図形と、同じ平面的な図形の触覚的図形の差異に比べると、平面的な図形を[三次元空間の中で]斜めにしたものの視覚的図形と, [空間的に斜めにする前の同じ]平面的な図形の触覚的図形の差異の方が、ずっと大きい(When plain figures are seen obliquely, their visible figure differs more from the tangible.)。また立体図形の眼における代理物(representation which is made to the eye, of solid figures)はさらに不完全である。視覚的延長は三つではなく、二つの次元しか持たないからである。しかし、ある人物の[二次元の]正確な絵(exact picture)でもその人に類似(resemblance)してないとは言い切れないし、一軒の家屋の[二次元の]透視法的な眺めも家屋に類似してないとは言い切れないから、或る人物、或る家屋の[二次元的な]視覚的図形は、それが代理する[三次元の]対象に類似性を持たない、というのは不当な言いがかりである。」


[第11節段落16]   バークリーの錯誤

「だからバークリー主教は、「我々が見る延長、図形、位置と、我々が触覚で知覚する延長、図形、位置の間には類似性がない」という想定に囚われたために、致命的な錯誤の一途をたどったのである(proceed upon a capital mistake)。」




 

 
 
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