T・リードの「心の哲学」(第6章 部分訳)

 

 スコットランドの哲学者 トマス・リード(Thomas Reid; 1710-96 )の「心の哲学」(1764)から、第6章「見ることについて(On Seeing)」の 1.2.3.7.8.9.11.節を翻訳します。彼の「視覚的なもの幾何学(The Geometry of Visibles)」を中心に、第6章を(数学的にも)理解可能な日本語に置き換えることが目的です。(9.11 節は部分訳。)

 なお底本はこちら。 Thomas Reid; An Inquiry into the Human Mind on the Principles  of Common Sense.  A Critical Edition. Edited by Derek R. Brookes.  The Pennsylvania State University Press. 1997.

 

 

 

 

6章  見ること(Seeing)について

 

1節  この能力の優秀性(excellence)と威厳性(dignity)

 

[第1節段落1]   光学を讃えて          

「前の時代(age)と今の時代における[つまりイングランドとスコットランドの統合による、グレートブリテイン成立の前と後における]光学(optics)の知識の拡大、取り分けアイザック・ニュートン卿の一連の発見は、単に学問(philosophy)のみならず、人間性一般(human nature)の名誉を高からしめるものである。現代の懐疑主義者どもの企て、すなわち人間知性を貶め、真理探究の意欲を沮喪させ、人間の能力を役立たずと嘲り、行くべき彼方に不合理と不整合しか見ない彼らの卑しい企てを、最終的に顔色なからしめるものがありとせば、それは一連の[光学上の]発見を措いて何であろうか。」

 

[第1節段落2]   光線の驚異           

「五感(the five senses)と呼ばれる能力のうちで、視覚がもっとも高貴であることは言を俟たない。この視覚に仕えるのが光線(the rays of light)であり、[逆に]我々は感覚なしではその光線をまるで理解できないのだが、その光線こそが、生命なき被造物の中でもっとも驚異に満ちたものである。[光線の驚異は枚挙にいとまがないが]、ここでは以下の実例でよしとせざるを得ない。まずその常軌を逸した微小性、想像を絶した速度、光線の呈する色の規則的な多様性、また他の物体からの作用で起こるのに、光線の元の性質は温存する、反射(reflections)、屈曲(inflections)、屈折(refractions)の一定不変の諸法則、そして高密度で(of great density)高緊密な(the closest texture)物体をすら、抵抗も受けず、押し合いもせず、妨げあいもせず、最軽量の物体にさえいささかも衝撃を及ぼすことなく、やすやすと透過するその性能。」

 

[第1節段落3]    視覚という自然の傑作            

「眼の構造、そのすべての付属品の構造、外的運動と内的運動のための自然の見事な仕掛け、各々の動物の本性と生き方に適合した眼の多様性。これら一連の事象は、まさにこの器官が大自然の傑作であることを証している。至高の叡智に導かれ、完全な光学的技能を踏まえて、光線は眼のために、眼は光線のために作られているということを本気で疑える人間は、光線に関する過去の発見にあまりにも無知なのか、あるいはよほど変わった知的傾向の持ち主であるに違いない。」

 

[第1節段落4]     視覚の優秀性             

「人間としてのすべての能力は備わっているのに視覚能力だけを欠いている、そんな状態の存在を想定してみよう。直径1インチの眼球と眼窩でできた器官を手に入れるだけで、自分が全軍の配置や戦闘序列(order of battle)を、あるいは豪華な宮殿の姿(figure)や多様を極める風景を、居場所を替えもせず、時間をかけもせず、認識できるようになったとき、それまで触覚(touch)の鈍い情報に慣れ親しんできた彼にとって、その驚きはいかばかりであろうか。テネリフ山の頂の姿、いや、サン・ピエトロ寺院の姿でも、それを触覚で確定しようと思えば、人は一生の仕事を覚悟しなければなるまい。」

 

[第1節段落5]     視覚の発見能力            

「さらにこの小さな器官による、他の感覚では捉えがたい事物についての一連の発見を耳にしたとき、つまり眼という器官によって、我々は大海原に航路を見出し、地球を横断し、地球の形状と計量を見定め、地球のすべての地域を線引きし、いやそれどころか天体の軌道を測定し、様々な恒星の表面にまで発見を広げたという事実を耳にしたとき、それは我々が想定したあの存在にとってなおさら信じがたいものであるだろう。」

 

[第1節段落6]             視覚の反偽善性            

「人間としてのすべての能力は備わっているのに視覚だけを欠いたこの存在は、次のことを聞かされたとき、さらに動揺(astonish)するのではないだろうか。すなわち、[眼の見える]我々はまさにこの器官[眼]を使って、他者の気性、気質、情念、情愛まで見抜いてしまい、相手がどんなにうまく隠しても、我々はそれをちゃんと見破ってしまうということを。相手が舌先三寸の嘘と本心を包み隠す術にいかに長けていようと、その表情から滲み出る偽善は我々の眼差しを逃れることができないということを。この器官によって真っ直ぐな物体と曲がった物体を見分けているように、[眼の見える]我々は真っ直ぐな心と曲がった心も見分けることができるということを。そうだとすると、[それほどの眼力を持つ]眼の見える者たちと信頼関係を結びたい(will give credit to the relations of those who can see)というのなら、盲人はあらかじめどれくらいの玄義(mysterious things)に自らを委ねておく必要があるだろうか? それははっきりしている(surely)。そのために盲人に必要なのは、良きキリスト者たるに恥じない強固な信仰心である。」

 

 [第1節段落7 ]        「見る(see)」という表現               

「そうだとすれば、見るという能力(the faculty of seeing)は他の感覚より立派である(more noble)だけではなく、感覚作用(sensation)[全般]より本質的に高貴(superior)とまでみなされてきたのは、故なきことではない。理性が何かを証拠立てる(evidence)とき、人は「そんな感じがする」、「そんな臭いがする」、「そんな味がする」などと言わず、飽くまでも「それを見た」と表現するのである。そう、我々は神に関わる(divine)知識のあり方を「見る」と形容する習いであり、そのとき、見ることは人間におけるもっとも完成された知識とされている。」

 

 

 

 

 

 

第2節 視覚(sight)が発見するもので、盲人に理解不可能なものはほとんどない 理由

 

[第2節段落1]     視覚的知識は健常者だけでなく盲人にも伝達可能である  

「私は視覚という能力の尊厳性(dignity)と優秀性(superior nature)に先ほど触れたけれども、それにも拘らず、視覚を通じて獲得された知識でありながら、先天的な盲人に伝達不可能なものがほとんど見当たらないことは、注目に値する。光を見たことのない人間でも、光学を含めて、いかなる学問であれ精通することはあり得るし(may)、哲学[philosophy.諸学]のどの分野であれ発見を成し遂げることはあり得る。天体の秩序、距離、運動のみならず、光の本性、光線の反射法則や屈折法則に至るまで、健常者に伍して理解することはあり得る。また、プリズム、カメラ・オブスクラ、幻灯機など諸々の自然現象(phaenomena)、ならびに顕微鏡や望遠鏡などの諸性能が、上記の諸法則に従って生み出される道筋を、盲人が判明に理解することもまたあり得る。これらの事実は経験によって十分に裏づけられたところである。」

 

 [第2節段落2]    盲人も、延長、図形、運動の現象(appearance)を理解する       

「さて[前段で述べたことの]その理由を知るためには、まず「眼に対する対象の現象(the appearance that objects make to the eye)」と、「この現象が暗示する事物(the things suggested by that appearance)」を区別する必要があるのだが、[実は]さらにもう一つ必要なことがあって、それは、対象の視覚的な現象(the visible appearance of objects)について、[その下位区分として]「色の現象」と「延長の現象、図形(figure)の現象、運動の現象」を区別しなければならない。そこで私が最初に思うのはこうである。先天的な盲人は、物体の図形の視覚的現象、物体の運動の視覚的現象、物体の延長の視覚的現象について判明な概念(distinct notion)を持ち得るということ(may)。もちろん[判明な概念といっても]当の物体(the very things)についての判明な概念ではなく、少なくともそれに酷似した或るもの(something extremely like to them)についての判明な概念のことを、私は言っている。[たとえば] 眼からまっすぐ向こうに向かって動く物体や、眼に向かってまっすぐこちらに向かって動く物体は、静止しているように現象する(appear to be at rest)ということに、盲人は思い至ら(conceive)ないだろうか? また眼から遠いか近いかに応じて、あるいは眼に対してまっすぐか斜めかに応じて、同じ運動でも速く現象したり遅く現象したりすることに、盲人は思い思い至らないだろうか? 或る位置にあれば平面が直線として現象し、直線の位置が変われば、あるいは眼の位置が変われば、平面の視覚的な図形(visible figure)も変化するということ、盲人をこれらのことに思い至らしめることができないだろうか? 斜めから見れば円が楕円として現象し、斜めから見れば正方形(square)が菱形や矩形として現象することについてはどうだろう ?  [たとえば盲目の] サンダーソン博士は球の射映(projection of the sphere)[の理論]であれ、遠近法の一般的な規則であれ理解していた。だから彼がその気になりさえすれば、彼はいま私が列挙した細々とした事実も全部理解できたに違いない。彼がこれらの事柄を理解できることに疑いをお持ちなら、私は彼が雑談のなかでこう言ったのを聞いたことがあるので、それをここに紹介しておく。例の命題、球の大円のなす角は、球の立体射影における代理物のなす角に等しい、という例の命題のハレー博士による証明を理解するのに、自分は多大の困難を感じたが、その証明はいったん傍において、それを自分流に考察し直してみると、自分はこの命題が真であることを明確に理解した、と。この会話には、当該分野について確固たる信頼性と判断力の持ち主とされるもう一人の紳士が加わっていたが、彼はこの件をはっきりと記憶しているとのことである。」

 

[第2節段落3]           「色の現象」と「図形、運動、延長の現象」の違い           

「[図形、運動、延長については前段で述べたとおりだが]、盲人は色の現象(appearance of colour)についてはいささか困惑気味である(more at a loss)。なぜなら盲人は、色に類似する(resemble)知覚(perception)を有しないからである。だが盲人は一種の類推にしたがって、[色に類似する知覚を欠くという]この欠陥を[次のようなやり方で]部分的に補完するかもしれない。[盲人はおそらくこう類推する]。眼の見える人間の場合、 {第一に}緋色とは諸物体における或る未知の性質を記号表示(signify)するものであり、[第二に]この未知の性質が眼に対して或る現象(appearance)を準備(make)するのであり、そして[第三に] 眼の見える者にはまさのこの現象との出会いがあり(acquainted with)、 観察の機会にも恵まれているのに対して、自分[盲人]の場合、緋色とは、[第一に健常者同様、やはり諸物体における]或る未知の性質を示唆するものであり、[第二に健常者同様やはり]この未知の性質は眼に対して或る現象を準備するのだが、[第三に]ただ自分[盲人]にはこの現象との出会いが欠けている(unacquainted)[だけな]のだ、と。しかし[健常者と自分の間に第三レベルでの違いはあっても]、盲人は、匂いが違えば鼻への作用(affect)が違い、音が違えば耳への作用も違うように、色が違えば眼への作用も違いを見せると思いなすことはできるし、トランペットの音がドラムの音と違い、オレンジの香りとリンゴの香りが違うように、緋色と青色は[盲人にとっても]違っているのだと思いなすことはできる。[以上が盲人のする類推である。ところで] 私に対する緋色の現象と、他人に対する緋色の現象が、同じか違うかを知る術はない。また或る人への緋色の現象と他の人への緋色の現象が、色と音ほど[はなはだしく]違っていても、それでも誰一人としてこの差異を発見することはできない。その結果は明々白々である。色について要領よくそして淀みなくおしゃべりする盲人や、真っ暗な場所で色の本性、構成、美しさについて訊かれても、自分の障碍を悟られぬように上手に受け答えする盲人が現れたりするのである。[だがこの馬鹿げた結論は、盲人のあの類推の誤りであることを物語っている。]

 

[第2節段落4]    眼によって獲得された知識は、ほぼ、言語で伝達可能である 

「盲人は、事物(things)が眼に引き起こす現象について、どれくらいの知識(knowledge)をカヴァーできるものだろうか。我々は[段落2で]この問題の吟味はすでに終えている。[では]現象が暗示する(suggest)物事(things)、あるいは現象から推定(infer)される物事についてはどうだろうか。盲人がそれを自力で発見できた例は見当たらない。しかし盲人がそれを他人から教えられて、それを完全に理解することができない、とする理由はない(may)。眼を通して心に入ってくるこの種の物事が、耳を通じて心に入ってくることができない、とする理由もない。だから、例えば盲人は、自らの能力の枠にとどまる限り、光のような事物のことは夢想すらできないが、しかしそれでも我々[健常者]が光について知るすべての内容を、我々から学ぶ(informed)ことならできる(can)のである。盲人は、光線の微小性と速度、[光の]屈折性能と反射性能の様々な度合い、この驚くべき元素の魔力と利点を、我々健常者と同じように判明に理解すること(conceive)ならできる。盲人は[たしかに]、太陽、月、星などの物体があることを自力で知ることはできなかったが、しかしこれらの天体の運動とそれを規制する自然法則に関する天文学者の尊い発見を、人から学ぶことならできる。そこで私にはこう思われるのである。眼によって獲得された知識のなかには、視力を欠く人々に言葉(language)で伝達不可能な知識はほぼ存在しないと。」

 

[第2節段落5]    視覚における霊感(inspiration)のようなもの   

「[現状では眼が見えるのが普通であって、]盲目に生まれることの方が稀であるが、[逆に]眼が見えるように生まれることの方が稀だとしたらどうだろう? そのときこの[眼が見えるという]稀有な才能を持つ少数の人間は、[その才能を持たぬ]多数の[盲目の]人間から預言者か霊的説教師と受け取られるのではないだろうか。ただ、[たしかに私は]霊感(inspiration)という言い方で、人間に新しい能力を認定しようとしているのだが、それは飽くまでも、その能力が、人類のありふれた能力で理解可能で、しかもありふれた仕方で他者に伝達可能であるような内容を、[ただ]見たこともない異常な手段で(in a new way, and by extraordinary means) 人に伝えることを指して、新しい能力と言っているのである。ここまでの[前の段落での、盲人に可能な事柄についての一連の]想定(supposition)を踏まえれば、視覚は盲人にとっては霊感に類することになるだろう。なぜなら[前段で見たように]、この[眼が見えるという]才能を持つ少数者は、この才能によって得られた[ありふれた]知識を、[異常なことに]この才能を持たぬ盲人に伝えることができていたことになるからである。たしかに、彼らは盲人に対して、自分がその知識を獲得した経緯(manner)を、[霊感であるがゆえに]判明に説明することはできなかった。そこで盲人は[盲人で]、[霊感だというので]視覚のうちに夢(dream)や幻覚(vision)まで持ち込んだうえで、この多様で広範な[視覚による]知識を司る装置(instrument)としては、眼球と眼窩など脇役(improper)に過ぎないと考えるかもしれない。全能者(the Almighty)が人間に知識を霊示する仕方が我々に不可知(unintelligible)であるように、眼が見える人間が眼でものを見、非常に多くのものを眼で識別するやり方も、自分にとって不可知なのだ[と盲人は考えるかもしれない]。[しかし霊感という触れ込みだからと言って]、盲人がろくに調べもせずに、「ものを見る天分(gift)」といった物言いを[見えてもいないのに見えていると主張する]詐欺行為(imposture)だと[逆に]蔑むなら、それはそれで如何なものだろうか? 盲人も、真率(candid) にして温順(tractable)[なキリスト者]であるというのなら、[むしろ]この天分の疑い得ぬ証拠を他人のなかに見、そこから大きな利得を引き出そうとするのが筋ではないだろうか?」

 

[第2節段落6]      視覚的現象という記号は没却される (1)      

「人間に視覚を与えたときに自然が抱いていた意図(intention)を知るうえで参考になるのは、視覚の対象の視覚的現象と、それが暗示する事物の区別である。この能力を使用するときの心の作用(operation of our mind)に正しく注意を向ければ、我々は自分が対象の視覚的現象をほとんど顧みないことに気づくだろう。視覚的現象は全く思考の対象にならず、反省の対象にもならない。視覚的現象はただ、心と異なる何か(something else)を、心に引き合わせる(introduce)ための記号(sign)として働くのである。しかも[前段で触れたように]、眼が一度も見えたことのない人でも判明に理解するような、心と異なる何か(something else)のための記号として。」

 

[第2節段落7]    視覚的現象という記号は没却される (2)      

「したがって私の部屋のなかの物の視覚的現象は、ほとんど時々刻々、晴天か曇天か、太陽は東か南か西か、私の眼が部屋のどこにあるかに応じて、変化する(vary)。しかし私にとってこの[視覚的現象の]変化は、朝、昼、晴天、曇天を知るための記号でしかない。本にせよ椅子にせよ、距離と位置が変われば、その度に眼に対するその現象も変わる。だがそれでも人はそれが同じままだと思ってしまうのである。視覚的あるいは遠近法的な現象は、物体の現実的図形、現実的距離、現実的位置の、記号ないしは表示(indication)であるが、我々は現象の方は忘却(forget)し、物体の現実的図形、現実的距離、現実的位置に直行するのである。」

 

[第2節段落8]      視覚的現象という記号は没却される (3)      

10ヤード向こうに或る人を見て、その後で100ヤード向こうにまたその人を見た場合、後の場合は前の場合に比べて、その人物の視覚的現象は、長さ、幅をとっても、あるいはどの線状の計量(linear proportions)をとっても、十分の一になっている。しかし私は、視覚的図形が縮小したからといって、彼[自身]が1インチたりとも縮んだとは思わない。視覚的図形の縮小から彼が以前より遠ざかったと結論することはあり得るが、その時でも、私はこの[視覚的現象の]縮小にはいささかも注意を向けない。なぜなら、前提(premises)が心に浮かんだことに気づかぬまま、[その前提から]結論を導くところに、心の働きの精妙さがあるからである。幾多の事例を挙げることができるが、記号あるいは表示(indications)たるべしというのが、自然が対象の視覚的現象に課した職責であり、記号について何一つ思い煩わず、あたかも記号など存在しなかったかのように、心は記号表示(signify)された事物に直行するのである。それは、或る言語に馴染めば馴染むほど、人がそれの音韻を聞き過ごすように、そして言語が記号指示する事物にだけ注意を向けるようになることに、よく似ている。」

 

 [第2節段落9]    バークリー評                        

「クロイン主教は、対象の視覚的現象は自然が使用する一種の言語であり、その役割は人間に客観の距離、大きさ、図形を伝えることにある、と述べたことがあるが、前段の議論を踏まえるなら(therefore)、この見解は的を射た貴重な指摘であったと言うことができる。さらにこの優れた文筆家[自身]は、長年にわたって光学分野で優れた研究者を悩ませてきた幾つかの自然現象(phaenomena)の解明に、この見解を成功裡に生かしたのだった。さらに賢明なるスミス博士は著作「光学」のなかでこの見解に改良を加え、それを踏まえて天界の視覚上の(apparent)図形を解明し、光学レンズ越しのものであれ裸眼によるものであれ、対象の視覚上の距離と大きさを解明している。」

  

[第2節段落10]   方針               

「これらの卓越せる書き手たちの議論の繰り返しをできるだけ避けるために、私は、「自然がこの視覚的言語(visual language)において使用する記号(signs)」と「この記号が記号表示する(signify)当の事物」の区別については[あらためて議論せず]、そのまま受け入れる(avail ourselves of)ことにする。視覚(sight)について語るべきことは多々あるが、何はともあれまずこの記号の観察(observation)から始めなければなるまい。」

 

 

 

 

 

 

 

 

3節   対象の視覚的現象について

 

[第3節段落1]   視覚覚的現象という記号は没却される(承前)    

「この節で我々は、ほとんどあらゆる刹那において心に現前している(presented)にも拘らず、決して反省の対象にならない或る物について語らねばならない。自然はそれを飽くまでも記号(sign)として企てたのであって、人間は生涯においてそれを他の用途に供することはない。それへの不注意は心の常習的で慢性的な習慣である。というのは、それが現象するやいなや、それが記号表示する事物が電光石火のごとく登場し、我々の関心を占有するからである。それを言い表す名前はない。それが心を通過するとき、確かに我々はそれを意識はする。しかしあまりも俊足でおまけに見慣れているために、それはまったくそれと気づかれず、記憶にも想像力にも痕跡を残さないのである。触覚の感覚作用についてそうであることには前章[第5章第5節]で触れたが、同じことが対象の視覚的現象(the visible appearance)についても言えるのである。」

 

[第3節段落2]   現象は抽象(abstraction)される         

「したがって私が今述べることを理解できるのは、努力と訓練の賜物として、「眼に対する対象の現象(the appearance of objects to the eye)」を、視覚を通じてなされる対象の色、距離、大きさ、図形についての「判断(judgment)」から区別できるようになっている読者だけである。この区別抜きでは成り立たない世俗的職業が一つあって、絵描き(profession of painting)がそれである。絵描きには視覚的対象について或る抽象(an abstraction)をする理由(occasion)があり、この抽象は我々の求める上の区別によく似ていて、しかもこの抽象こそが絵画芸術の奥義(the most difficult part)なのである。というのは、対象の視覚的現象を、この現象が記号表示する事物と截然と区別し、この視覚的現象を想像力の内部に(in his imagination)定着する(fix)ことさえできれば、実物(life)から[直に]絵を描き、ひとつひとつの図形にそれにふさわしい陰影なり浮き彫りなり遠近法的縮尺(perspective proportions)なりをあてがうことさえもはや困難でなくなる。そのとき、画家は[スケッチなしでも]スケッチ(copy)を使って描いたのと同じ成果を手に入れるのである。遠近、陰影、重ね合わせ(giving relief)、色割り(colouring)は、事物の眼に対する現象をスケッチする行為(copying)以外の何ものでもない。私は、視覚的現象というテーマを考えるための手がかりを、この芸術から借りることにする。」

 

[第3節段落3]    現象の位相を取り出す             

「本のような見慣れた対象を、様々な位置で、様々な距離で眺める場合を考えてみよう。人は視覚の証言に基づいて、次のことを認めないだろうか。すなわち、1フィートの距離から見ても10フィートの距離から見ても、あの位置(position)で見てもこの位置で見ても、それは同じ(same)本なのだ、と。眼が判断できる範囲では、[距離や位置に関わりなく]色も計量(dimension)も図形もみな同じままなのだ、と。確かにこの事実は認めざるを得ないだろう。同じ一つの対象(the same individual object)が心に現前していて(presented)、ただ距離と位置を変えて置かれているだけだ、という訳である。[しかし]そこで私はこう尋ねたい。この対象は、これら様々な距離において、眼に対して同じく現象(same appearance)しているだろうか?断じて(infallibly)そうではない。なぜなら。」

 

[第3節段落4]   現象の位相を取り出す(1.色の現象性          

「第一に、[距離と位置に関わりなく]色は同じままだという判断がどんなに動かし難くとも(certain)、距離が変われば[色の]現象が同じでなくなるという判断もやはり動かしがたい。対象を遠くに移動させれば、その当然の結果として、色の褐色 (degradation)や細部の混交(confusion)ないしは曖昧化が起こる。画家でない人、絵画批評家でない人は、このことを見過ごし、1フィートの距離と10フィートの距離で、また日陰と日向で、同じ対象の色でも異なる現象をすることに納得しない。しかし絵画の名手なら、同じキャンバス上にあってしかも眼から等距離にある[二つの]図形でも、色の褐色や細部の混交[を逆手に取ること]によって、[ 二つの]対象が別々の距離にあるように見せることができることを知っている。また彼らは、現実的に異なる色を[二つの対象に]使っているのに、[二つの対象の]距離や陰影を操作することによって、それらを同じ色の[二つの]対象に見せるやり方を、知っている。」

 

[第3節段落5]    現象の位相を取り出す(2.図形との分離)          

「第二の理由はこうである。遠近法の規則(rules)に明るい人なら誰でも知っていることだが、本の位置が変われば、本の図形の現象(appearance of the figure)もかならず変わるものである。しかし遠近法を知らない人に、「本がどんな位置にあろうと、その本の図形(figure)は眼に対して同じ図形として現象する(appear)かね」と尋ねてみるがよい。彼はなんのためらいもなく(with a good conscience)、その通りだと答えるだろう[図形の同一性への執着]。そこで彼が、位置が変われば視覚的な図形も変わることを考慮に入れることができるようになり(hath learned to make allowance for)、またそこから妥当な(proper)結論を導くこともできるようになった、としてみよう[位置の変化に呼応して図形が変化する、という認識の覚醒]。 [ところが]、その結論の出し方が性急かつ惰性的なために、彼は[結論は出せてもその結論の]前提(premises)は見落とすのである。すなわち、彼がこの結論を導くたびに[つまり位置が変われば、視覚的な図形も変わると思うたびに]、彼は[このことの前提であるところの、視覚的「図形」が変わるときその図形の視覚的「現象」も変わるという事実を見落とし、] 視覚的現象の方はずっと同じままだった筈だと言い張るのである。」

 

[第3節段落6]     現象の位相を取り出す(3.判断との分離)     

「第三の理由はこうである.本の現象上の大きさ(apparent magnitude)または現象上の計量(apparent dimensions)を考察してみよう。1フィートの距離で見ようが、10フィートの距離で見ようが、本は長さ約7インチ、幅約5インチ、厚さ約1インチに思える(seems)。私はこれらの計量についてほぼ(very nearly)眼で判断する(judge)ことができ、そしてどの距離で見ても、それは同じ計量だと判断する(judge)。しかし1フィートの距離で見たときの視覚的な長さと視覚的な幅(visible length and breadth)が、10フィートの距離で見たときのそれのおよそ10倍であること、したがってその面積も約100倍であることに疑問の余地はない。[ところが]この現象上の大きさの多大な変動はまったく見過ごされ、人は、本がどの距離でも、眼に対して(to the eye)同じサイズで現象している(appear)と思い込むのである。[だが見過ごされる事実はそれだけではない。] 私が本を見るとき、その本は間違いなく長さ、幅、厚さの三計量を持つように思えるが(seem)、しかし長さと幅しか持たない画布の上に正確に表現できることからも分かるように、 視覚的現象が[長さと幅の] 二計量しか持たないことには疑問の余地がないのである。」

 

[第3節段落7]   現象の位相を取り出す(4.距離の問題)     

「最後の理由はこうである。人間は誰でも、本と眼の距離を視覚で感じ取ること(perceive)ができるではないか。「1インチ足らずの距離にある」だとか「10フィートの距離にある」だという言い方をするではないか。しかしそれにも拘らず、「眼からの距離は視覚の直接的対象(immediate object)ではない」というのが、本当のところらしい。視覚的現象に何かが含まれていて、それが眼からの[対象の]距離の記号(signs of distance from the eye)となるのであり、また(後述のように)、経験とともに(by experience)我々は、その記号を使って眼からの[対象の]距離を或る限度内で判断(judge)できるようになるのである。ただ次のような疑い得ない事実がある。盲目に生まれつきやがて一挙に開眼した人物は、見えている対象の[眼からの]距離について、当座、判断を下すことができない。チェゼルダンが治療した若者は、[開眼]当初は、見えるものすべてが彼の目に接触(touch)していると思ったが、経験とともにようやく、視覚的対象(visible objects)の距離について判断できるようになった、とのことである。」

 

[第3節段落8]   視覚的現象という言語の忘却      

「私がこれほど細部に立ち入った理由は、対象の視覚的現象(the visible appearance of an object)が、経験(experience)の指導のもとで我々が視覚によって形作る対象の概念(notion)と似ても似つかぬものであることを示すためであった。併せて私は読者に、眼に見える事物(visible things)の、色の視覚的現象[段落4]、図形(figure)の視覚的現象[段落5]、延長(extension)の視覚的現象[段落6]に注意するように促したところである。これらの視覚的現象はふつう思考の対象にはならないが、この感覚[つまり視覚]の哲学に立ち入り、それについての我々の議論を理解したいと望む者は、心してそれに取り組まねばならない。新たに開眼した者と、[もとから眼の見える]我々の間で、対象の視覚的現象に違いがあるわけではないが、それでも彼は我々がするように、対象の現実的(real)計量を見ることはあるまい。新たに開眼した彼は、[我々がするように]対象の長さ、幅、厚さが何インチなのか、何フィートなのかを、視覚だけで推定することはできまいし、[我々のように]対象の実在的な(real)図形を知覚することもほとんどいやまったくできず、また[我々のように]これは立方体、あれは球、これは円錐、あれは円柱という調子で見分けることもできず、[我々のように]この対象は近い、あの対象は遠いと眼で知ることもできまい。我々の眼には、僧や尼僧の僧衣(habit)は、色が一様で(uniform)、そこに折り目と陰影がついているように見えるが、彼の眼に僧衣は、折り目も陰影も見えず、ただ様々な色(variety of color)が見えるだけだろう。要するに、彼の眼は、完治(perfect)はしていても、当座(at first)、外部の事物についての情報(information)をほとんど与えないのである。外部の事物は、彼の眼にも我々の眼にも、同じ現象(appearance)を提示し、[いわば]同じ言語(the same language)を語るわけだが、しかし彼にとってその現象は[いわば]外国語(an unknown language)なのである。記号に注意を向けることはできるが、記号の記号表示(signification)には通じていない、ということだろう。それに対して、我々にとって現象は慣れ親しんだ言語である。ただし慣れ親しんでいればこそ、注意は記号が記号表示する事物に向かい、記号そのものは没却されるのだが。」

 
 
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